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ヨハネによる福音書 1:19〜34

2016年12月28日(水)祈り会
聖書箇所:ヨハネによる福音書 1:19~34(新共同訳)

 

 きょうの箇所は、洗礼者ヨハネについてです。
 6, 7節にはこう書かれています。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」。
 そして、19節で「エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させた」とあります。ヨハネという人が洗礼を授けている、というのが噂になっていたようです。
 ヨハネは答えます。「わたしはメシアではない」。
 口語訳聖書では「メシア」が「キリスト」となっています。「メシア」はヘブライ語アラム語)、「キリスト」はギリシャ語です。新共同訳聖書の底本は『ギリシア語新約聖書(修正第三版)』(聖書協会世界連盟)で、これを見るとここは「キリスト」とありますが、翻訳に際してヨハネが話していたであろうヘブライ語アラム語)にするのが適当と判断されたのでしょうか。メシアとキリストは同意語で、「油注がれた者」という意味で救い主を表します。メシアは、ヘブライ語マーシーアッハ」、アラム語「メシーハー」を音訳したもの。キリストは、ギリシャ語「クリストス」を音訳したものです。(参照:『新共同訳聖書 聖書辞典』新教出版社)
 「わたしはメシアではない」とヨハネが答えたので、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」

 エリヤは旧約の預言者で、その生涯の最後は火の車に迎えられて天に上った(列王記下2:11)と記され、マラキ書では「大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(3:23、口語訳聖書 4:5)と記されています。
 「あの預言者」というのは、申命記 18:15で「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」と言われている「わたし(モーセ)のような預言者」のことです。
 神が「遣わす」「立てる」と言われたので、彼らは「あなたはエリヤですか」「あの預言者なのですか」と尋ねたのです。
 ヨハネが「そうではない」と答えたので、彼らは「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか」と尋ねました。
 ヨハネは預言者イザヤの言葉を用いて答えます。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」これはイザヤ書 40章3節の言葉です。そこにはこうあります。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」
 これはヨハネの自覚です。神の召しに対する自覚です。イエスは「実は、彼は現れるはずのエリヤである」(マタイ 11:14)と言われました。けれどヨハネは、「そうだ、わたしこそ、マラキが預言していたエリヤである」とは答えませんでした。それは、ヨハネが主から託された務めを自覚していたからです。彼は自分を指し示す者ではなく、キリストを証しする人でした。

 ヨハネは、イエスのために道を備えるのが自分の務めだと思っていました。ヨハネは言います。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」(26, 27節)
 ヨハネは、証しをするために来ました。光であるイエスについて証しをし、すべての人がイエスを信じるようになるためです(7節)。
 「翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」(29〜31節)。さらにヨハネは証しして言います。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(32〜34節)。
 「“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」とあります。これは、イエスがヨハネから洗礼を受けた際の出来事です(マタイ 3:13〜17, マルコ 1:9〜11, ルカ 3:21, 22)。ヨハネは確かに証し人でした(6〜8節)。

 現代は理性、科学が力を持つ時代です。人々は、科学的な証拠を求めます。聖書の記述に対してもそうです。奇跡やキリストの業、生涯について、科学的な証拠を求めます。しかし、神がなさったのは証し人、証人をお立てになることでした。不確かで、罪ある人間の言葉にご自身の御業の証しを委ねられました。
 その証しが正しいかどうかは、神がその証しを用いて救いの御業をなさるかどうかにかかっています。「見よ、神の小羊」「見よ、この人だ」とイエス・キリストを指し示す証しによって、キリストと出会い、キリストを信じ、キリストの救いに入れられる。神の民、神の子が新しく生まれるかどうかにかかっています。ある人は、キリスト者が生まれるのは天地創造にも勝るとも劣らない神の御業である、と言っています。そして事実、神は、ご自身の証し人を立て、遣わして、今に至るまで救いの御業をなし続けておられます。
 そして今、わたしたちも神の証しを聞きました。既に信仰を持っている人は、身をもってその証しが真実であることを、今経験したのです。「わたしも証し人の宣教によってキリストへと導かれ、信仰へと招き入れられた」。
 わたしたちもキリストの証人、神の証し人として召され、立てられたのです。わたしたちの言葉は弱くつたないものです。けれど、神がわたしたちを召され、わたしたちを用いてくださるのです。「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと」(1コリント 1:21)しておられるのです。

 自分自身、人間、この世を見ると、望みを見いだすことができなくなるかもしれません。しかしわたしたちは、御言葉によって「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを」(ローマ 8:28 口語訳)信じるようにと招かれています。

 きょうからの新しい日々も、神が造られたもの。わたしたちの希望は、神の御業、そして神ご自身にあります。神を仰ぎ見て、救いの完成を望み見て、キリストの証人、神の証し人として歩んでまいりましょう。

ハレルヤ