読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

イザヤ書 60:1〜9

待降節・降誕節

2016年12月18日(日)主日礼拝
聖書箇所:イザヤ書 60章1~9節(口語訳)

 

 きょうは待降節第4主日です。

 預言者は、バビロン捕囚から解放されたエルサレムの民に向かって語ります。
 彼らの目の前にあるのは、復興が始まったばかりの町並みです。神殿も破壊されたままです。その民に向かって、神はお語りになります。
 「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。」(1~2節)

 目に映る現実は、闇に覆われています。光が見えません。途方に暮れて、しゃがみ込みたくなるような現実。神に向かって悪態をつきたくなるような現実です。
 けれど神は語られます。「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。・・あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。」

 主ご自身が光なのです。月が太陽の光を受けて光を放つように、神の民は光である神ご自身の栄光を受けて、光を放つのです。イエス キリストは言われます。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ 8:12)。聖書はイエス キリストを指して「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」(ヨハネ 1:9)と語ります。
 闇が地を覆い、明日への希望が見えないそのただ中に、イエス キリストが「すべての人を照すまことの光」として世に来られました。わたしたちは、世の光であるキリストに照らされるとき、「命の光」を持って歩くことができるのです。
 このイザヤ書60章冒頭の神の言葉は、神の救いの御業であるイエス キリストと出会っていくときに実現するのです。

 この箇所で「栄光」という言葉が3度出てきます(1, 2, 7節)。聖書において「栄光」とは、神がわたしたちの救いの神であることが現れることを言います。そして、神が救いの神であることは、イエス キリストの十字架において明らかにされました。「主の栄光があなたの上にあらわれる」(2節)「わたしはわが栄光の家を輝かす」(7節)そしてヨハネによる福音書は「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ 1:14)と告げるのです。「めぐみとまこととに満ちていた」ひとり子の「栄光」とは十字架に他なりません。
 この世界では「栄光の金メダル」のような言い方をします。この言い方の場合、メダルを取った本人の努力、成果を誉め讃えて「栄光」という言葉を使います。しかし、キリストの十字架に対して「栄光の十字架」という言い方は、合わないように思います。金メダリストは、台の一番高いところに上り、キラキラと輝く金のメダルをかけてもらいますが、キリストの十字架は、わたしたちを救うためすべての罪を負って最も低いところへ来られました。さらに陰府にまで行くために十字架を負われました。金メダリストの「栄光」はメダリストの上に輝きます。しかし、神はご自身の栄光をわたしたちを救うことにおいて現されました。
 わたしたちの上に現れる栄光、わたしたちに臨む光、それは十字架の栄光であり、十字架の光です。わたしたちは、キリストの十字架によって、神がわたしたちの救いの神であることを知ったのです。

 そして、すべての人が必要としている救いこそイエス キリストの十字架です。わたしたちを照らす十字架の光、十字架の栄光、十字架の輝きを、わたしたちが証しし、放つとき、「もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る」(3節)のです。「彼らはみな集まってあなたに来る」(4節)のです。

 これらは今、肉の目には見えません。彼らの目に映るのは、がれきだらけの町並みです。誰もこんなところに喜んで集まってきません。そんな状況のただ中で、神はこの預言を語らせたのです。聖書はまた、神の言葉よりもこの世に囚われてしまう民に向かってこう語ります。「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認すること」(ヘブル 11:1)だと。神はひとり子によって預言、そして約束を成就されました。神の民は、キリストの十字架を仰ぎつつ、まだ明らかになっていない救いの御業を、信仰によって望み見るのです。そして、暗きが地を覆い、闇が民を覆っているただ中で、キリストの十字架を証しし、十字架の光を放つのです。
 聖書は告げます。「信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。・・信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ 10:14~17)。
 だから、神は命じられるのです。「起きよ、光を放て」(1節)。

 わたしたちの今の状況も、暗きが地を覆い、闇が民を覆っています。「どうやったら光なんか放てるんだよ」と神に叫びたくなるかもしれません。
 しかし、キリストの十字架の栄光はあなたの上にのぼり、あなたの上に現れています。そして「主があなたを輝かされ」(9節)ておられます。わたしたちは自分で光ろうと努力するのではありません。光である主が、わたしたちの上にのぼり現れてくださいました。光である主が、わたしたちに臨み、輝かせてくださいます。

 ですから、わたしたちにとって大事なのは「わたしはキリストの十字架によって救われた」ということを心新たに確認することです。キリストは罪の闇のただ中に来られました。この世にはキリストを迎える準備も余地もありませんでした。しかしキリストは、救い主として世に来てくださいました。そして、キリストは十字架を負ってくださり、命を献げてくださいました。キリストは決して消えることのない世の光となってくださいました。だから、わたしは「やみのうちを歩くことがなく、命の光を」持っている、そのことを今、確認するのです。

 主は「こうして、わたしはわが栄光の家を輝かす」(7節)と言われます。その故に、教会は十字架を自らの「しるし」として掲げるのです。この教会の屋根にも十字架があります。これは単なる教会の目印ではありません。神がこの教会において、ご自身の栄光を現される。イエス キリストの十字架の光で、わたしたちを照り輝かせてくださる「しるし」なのです。

 今、キリストの十字架を思い浮かべてください。キリストの十字架こそ、わたしたちを照らす光、わたしたちを輝かす主の栄光です。

 今、目に映るものは暗いですか? 希望の光は見えませんか? しかし、主は言われます。あなたの光が臨む。あなたの栄光があなたの上に現れる。わたしがあなたを輝かす。復活されたイエスは言われます。「見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネ 20:29)。この世では明らかではない神の救いの御業、それを十字架の光に照らされてわたしたちは見るのです。

 この主の栄光が現れるのを信じて待つとき、それが待降節です。
 「起きよ、光を放て。主の栄光があなたの上にのぼったから」

ハレルヤ

広告を非表示にする