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教理による黙想の手引き 08

教理による黙想の手引き 第8回
日本キリスト教会発行 福音時報 2015年8月号掲載
 掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」)

 

「復活-永遠の命」

「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。」

              (ヨハネによる福音書 6章 40節 口語訳)

 

 聖書の大切なテーマの一つは「命」です。それも「神と共に生きる命」です。「神と共に生きる」ことを妨げるのが「罪」です。罪は、命の源である神から引き離し、死へと導きます。聖書は「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」(ローマ 6:23)と言っています。

 創世記1章が告げる創造の御業は、命と命を育む秩序の創造です。神は、造られたものたちが命を喜び、そして生きること、神と共に生きることを喜びたたえるために、創造の御業をなさいました。
 救いの御業もまた同じです。「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」(同 4:25)。十字架も復活も、わたしたちが神との良き関係の中で、神と共に生きるためのものでした。救いの御業に与り「新しく造られる民は、主をほめたたえるでしょう」(詩篇 102:18)。

 イエスの復活によって新しく与えられた命が「永遠の命」です。罪によって死に至るのではなく、神と共にあることを喜び生きる命です。ですから、ただ単に永遠に生き続ける命ではありません。古来、人は不老不死を求め続けてきました。現代でも、アンチエイジングが一大ブームです。しかし、死を見ないようにして遠ざけてみても、罪の問題が解決しない限り、すべての人は死の虚無に包み込まれています。

 この永遠の命について繰り返し語るのが、ヨハネによる福音書です。そこで明らかにされているのは、永遠の命は「信じる」というイエスとの交わりの中に存在する、ということです。
 「御子を信じる者は永遠の命をもつ」(ヨハネ 3:36)。「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」(同 5:24)。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(同 3:16)。

 わたしたちは、「信じる」という関係の中で、命の源なる神と交わり、神の命に与るのです。命は神ご自身であり、神との交わりの中にあります。
 「御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(1ヨハネ 5:12)。「わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである」(同 5:20)。「わたしは、彼らに永遠の命を与える」(ヨハネ 10:28)。

 神は、わたしたちが信じて生きることを願っておられます。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである」(同 6:40)。
 神は、悪人でさえ、生きることを願っておられます。「わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。」(エゼキエル 33:11)
 だから、わたしたちが信じて生きられるように、神は救いの御業の中で、ご自身の愛と真実を現し、神を知ることができるように、信じることができるようにしてくださるのです。ですから、信じることには、主を知る喜び、主の愛に触れる喜び、主の真実に守り支えられる喜びがあるのです。イエス・キリストは、わたしたちが命あることの幸いを楽しみ、生きることの喜びを味わうために来てくださいました。「わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである」(ローマ 5:21)。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」(ヨハネ 17:3)

ハレルヤ