聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

イザヤ書 42:1〜17

2016年12月4日(日)主日礼拝
聖書箇所:イザヤ書42:1~17(口語訳)

 

 きょうは待降節第2主日です。きょうの聖書の冒頭 1~4節は「主の僕の歌」と呼ばれるものの最初のものです。この「主の僕の歌」は42~53章にかけて4回出てきます。「主の僕の歌」は最終的にメシア=救い主を指し示していると考えられています。ですから、待降節に説教する箇所とされてきました。

 「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む。」(1~4節)

 神は救いの御業のために一人の僕をお立てになります。彼は「道をしめす」ために召されました。1節の終わりにも、3節の終わりにも「道をしめす」と出てきます。4節の「道を・・確立する」も「道を示す」と同じ単語が使われています。これは「ミシュパート」という単語です。旧約に406回出てくる重要な言葉です。新共同訳では「裁き」と訳されています。この「ミシュパート」は神の言葉、神の戒め、あるいは神の御心が教えられることによって確立されていく「神と共に生きる」ということを意味しています。
 「神と共に生きる」ことは「救い」そのものです。罪によって「神と共に生きる」ことができなくなった罪人を、神と共に生きられるようにするのが救いなのです。ですから、僕は救いの御業のために召されたのです。

 道を示すために召された「僕」は、神によって「民の契約」(6節)とされ、世界の人々の「光」(6節)とされました。
 聖書の旧約・新約の「約」は「契約」の「約」です。わたしたちが神に立ち帰るために立ててくださったのが契約です。わたしたちは絶えず変わりゆく世にあって、いつも不安を抱えています。その罪故に不安なわたしたちの平安と希望のために、神はわたしたちと契約を結んでくださったのです。神の真実な約束によって、わたしたちが平安を得、希望を持って生きることができるように、神は契約を結んでくださいました。
 そして、神が召された「僕」=救い主こそ、神が立ててくださった契約そのものです。救い主は、罪人を照らす光です。「盲人の目を開き」囚われ人を「獄屋」から解放してくださいます。わたしたちも罪に囚われ、神ご自身が見えなくなっています。わたしたちも「光」である救い主と出会って、罪から解放され、神を仰ぎ見る者とされていくのです。

 「見よ、さきに預言した事は起った。わたしは新しい事を告げよう。その事がまだ起らない前に、わたしはまず、あなたがたに知らせよう。」(9節)
 わたしたちの思いを超えた新しいことを神はなさいます。誰が想像したでしょうか。真に神である神のひとり子が人となって世に来られるということを。しかも、罪人を救うために神のひとり子が十字架で命を献げるなんて。さらに死を打ち破って復活されるなんて。
 人は常に未来を予想します。しかし、神の新しさは、人の予想を超えるのです。人の考えの中に、神を捉えきることはできないのです。
 神は言われます。「わたしはわが栄光をほかの者に与えない。」(8節)わたしたちは、神を理解し尽くしたかのように、神について語ることはできません。ただ神ご自身だけが神の栄光を現すことができるのです。ヨハネによる福音書はこのことについてこう述べています。「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネ1:14)神であるお方が人となって世に来られ、神がわたしたちの救いであるという神の栄光を現してくださいました。

 真に神であるお方が、真に人となられた。主であるお方が、僕になられた。誰も予想しない、誰も期待してもいないことを、神はなしてくださいました。「わたしは新しい事を告げよう。その事がまだ起らない前に、わたしはまず、あなたがたに知らせよう。」イエス・キリストがお生まれになる遙か昔に、神はすでにその救いの御業をお語りくださいました。このことの故にわたしたちは、先週聞いた御言葉「われわれの神の言葉はとこしえに変わることはない」(40:8)を「アーメン、主よ真実です」と聞くことができるのです。

 神の真実な約束を聞いた民は命じられます。「主にむかって新しき歌をうたえ。地の果から主をほめたたえよ。」(10節)神が救いの御業をなされることを聞いて、民は歌うのです。「新しい歌」とは新しく作られた歌ではなく、新しい心で歌う歌です。自分の思いを超える新しい言葉を聞いて、驚き喜ぶ新しい心で歌う歌です。「山の頂から呼ばわり叫べ。栄光を主に帰し、その誉を海沿いの国々で語り告げよ。」(11, 12節)世界の人々が、神を喜び讃える歌声を耳にするように歌うのです。神は歌う喜びすらなかったところに讃美の喜びを造り出してくださるのです。

 けれど、この喜びを生み出すために、神は自ら苦しみを担ってくださいました。「わたしは久しく声を出さず、黙して、おのれをおさえていた。今わたしは子を産もうとする女のように叫ぶ。わたしの息は切れ、かつあえぐ。」(14節)神は全能の神だから、何の苦もなく救いの御業をなされたのではありません。神はわたしたちのための苦しみを担われました。苦しみを担ってまでわたしたちを救われるのです。「わたしはこれらの事をおこなって彼らを捨てない。」(16節)
 そして救い主もまた、苦しみを担うためにこの世に来られました。わたしたちを救うために人となって世に来られました。

 「見よ」と神は言われます(1, 9節)。神自ら成し遂げられる救いの御業に注目せよと言われます。主の僕として救いの業を成し遂げられたイエス・キリストを見るのです。
 「主の僕の歌」は,詳しくは「苦難の主の僕の歌」と言われます。わたしたちのために苦難を負うことをいとわない本当の救い主がここにいるのです。自分自身が苦難を負って,わたしたちのために神と共に生きる道、救いの道を開かれました。

 わたしたちは「見よ」と言われています。イエス・キリストを見よと言われています。この方において主の御業がなされ,救いが成し遂げられました。わたしたちは今、救い主の到来を待ち望む待降節のただ中において、旧約の民と共に、全世界の神の民と共に、喜びをもたらす驚くべき神の言葉を聞いているのです。

 

ハレルヤ