聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

教理による黙想の手引き 01

教理による黙想の手引き 第1回
日本キリスト教会発行『福音時報』2015年1月号掲載
 掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 - 」)

 

「主」

「なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。」

       (ローマ人への手紙 14章 9節 口語訳)

 

 人には自分の願いというものがあります。自分の願いがかなうことを願い、できるだけ自分の願い通りの人生を歩みたいと思います。そして自分の願いがかなうところに幸せがあると思っています。それは、自分が自分の人生の主でありたいと願っていることなのです。
 それは信仰においてさえ起こります。イエスがご自分の十字架と復活について語られたとき、ペテロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」とイエスをいさめました。そのときイエスは「サタンよ、引きさがれ。・・あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23)と言われました。

 エデンの園においてアダムとエバが、神が食べるのを禁じられた善悪を知る木(創世記3:17)の実を食べてしまった(創世記3:6)ので、わたしたちは自分の善悪を持つようになりました。この自分の善悪は、神の善悪とも、他者の善悪とも違います。このことの故に、わたしたちは自分の善悪のとおりに生きたい、自分の人生の主でありたいと願うようになりました。
 これが罪と呼ばれる出来事です。わたしたちは罪を抱えているが故に、神の御心を自分の思いとして生きることができないのです。絶えず神から離れ、自分の思うとおりに生きてしまうのです。罪故に、わたしたちは神が自分自身の主であられることに抵抗し、拒絶しようとしてしまうのです。

 しかし、このままでは罪に誘(いざな)われ、命の基なる神から離れ続け、死と滅びに至ってしまいます。イエスはわたしたちを罪から救い出し、主なる神のもとに立ち帰らせるために、救い主として人となり「死者と生者との主となるために、死んで生き返られた」のです。
 イエスは、真の人となり母マリヤの胎に宿られ、救い主として生涯を全うし、十字架で「死んで生き返られた」のです。これは単にかつてイエスがこのような生涯を送られたということではありません。「死者と生者」つまりすべての人の「主」となるため、すべての人のところに来てくださったということです。母の胎にある命のところへ、病に苦しむ人のところへ、差別されている人のところへ、理解されず孤独でいる人のところへ、そして死んでしまった人のところへ。すべての人のところへ、イエスは救い主として来てくださっています。真の神に立ち帰らせ、永遠の命に与(あずか)らせる真の主となるためです。

 真の主を得たとき、わたしたちは罪の支配から解放されます。罪がもたらした<自分の善悪こそ、わたしの幸せ>と思っていたわたしの中に、救い主が、イエス・キリストが来てくださったのです(ローマ8:9, 10)。主は、自らを低くし、このわたしのところに来てくださり、死に至るまで、十字架の死に至るまで従順に神の御心に生きてくださいました(ピリピ2:8)。そして十字架の死を通して、神の御心にこそ復活の命があることを証ししてくださったのです。罪による自分の善悪に、イエス・キリストこそわたしの真の主であり、わたしの命と未来であることを気づかせてくださったのです。

 だからローマ14:8では「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。」と語ります。「主のために」は目的だけを表しているのではありません。主の御業、生涯、主ご自身に支えられ、導かれて、生きまた死ぬのです。主の御顔を仰ぎつつ、主と共に、主に従って、生きまた死ぬのです。主がご自分の命を差し出してわたしたちの命となってくださったので、わたしの命である主のために生きまた死ぬのです。それは、わたしたちのために「死んで生き返られた」イエス・キリストが、わたしたちの真の主となってくださったからです。

 主はわたしたちのすべてを守り、治めてくださいます。何者も「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ8:39)のです。だから、わたしたちは主を信じて生きることができるのです。真の主は、真にわたしたちの主であってくださいます。わたしたちは今、「罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを」(同6:11)喜び感謝しつつ生きる者とされており、またそのような者へと召され続けているのです。

ハレルヤ