聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

イザヤ書 40:1〜11

2016年11月27日(日)主日礼拝
聖書箇所:イザヤ書40:1~11(口語訳)

 

 きょうから待降節です。キリストの誕生を降誕と言います。その降誕を「待つ」期間を指して待降節と言います。12月25日(クリスマス)の前、4回の日曜日を待降節第1~4主日と呼びます。英語でアドベント( Advent )と言います。「到来」を意味する言葉です(ラテン語Adventus(アドベントゥス)から)。教会の暦、教会暦では待降節から新しい年となります。

 「待つ」というのは、すべての神の民に与えられた大切な課題です。当然「待つ」ということは、「信じて待つ」「神が約束を果たしてくださることを信じて待つ」という意味です。キリストが来られる以前の旧約の民は、救い主=キリストの到来を待ち続けました。キリストが来られてからの新約の民は、キリストが再び到来し(これを再臨と言います)救いが完成するのを待っています。

 「待つ」のには訓練が必要です。神が約束をいつ実現してくださるか分からないからです。行列であれば、段々前進して、先頭が見えてくれば、近づいているのが分かりますから、待つこともできます。けれど、神の約束はいつ実現するのか分かりません。
 特に今は「すぐ」を求める時代です。即効性と手軽さが求められる時代です。「神を信じて待つ」ということを身につけるには、神の訓練が必要です。神の訓練を受ける神の民は、聖書で「後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」(ヘブル12:11)と言われていることを心に留めておかなくてはなりません。
 神がわたしたちに「待つ」ことを与えられる、それを覚えるのがこの待降節なのです。

 かつてイスラエルはバビロン捕囚と呼ばれる出来事を経験しました。新バビロニアによって国が滅ぼされ、エルサレムの主だった人たちが捕虜としてバビロニアの首都バビロンに連れて行かれました。この出来事をバビロン捕囚と言います。
 聖書はバビロン捕囚が神の裁きであったと告げています。イスラエルの心が神から離れてしまったことに対する裁きだと告げられています。神は何人もの預言者を遣わし、繰り返し「立ち帰れ、神に立ち帰れ」と語られましたが、民の多くは立ち帰ることはありませんでした。神は預言者を通して「神にこそ信頼せよ」と呼びかけられましたが、彼らは目に見えるこの世の力、国の力に依り頼もうとし続けました。戒めどおりに礼拝を守り、献げ物はしていました。しかし、その心が頼りとしていたのは神ご自身ではありませんでした。
 神の民は神と共に生きるために召されました。しかし、その務めを忘れてしまったとき、神は裁きをもって民の罪を打たれました。捕囚は60年にも及びました。バビロンで生涯を終えた者、そしてバビロンで生まれた者もいたでしょう。捕囚の生活が当たり前の日常になっていました。

 そういった状況の中で語られたのが、きょうの御言葉です。神は「裁きの終わりを告げよ」と預言者に命じられました。
 1節「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を、主の手から受けた。」(1~2節)
 「二倍の刑罰」とありますが、これは十分な裁きを受けたという意味です。そして、裁きの後に民は呼びかける声を聞きます。神の業は裁きで終わるのではありません。裁きは罪と滅びから救い出し、悔い改めへと導くものです。新バビロニアペルシャによって滅ぼされます。ペルシャの王は捕囚の民を解放し、帰国することを許しました。

 3節「呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである。」(3~4節)
 この言葉はエルサレムへの帰還を示す言葉です。そして、この言葉はイスラエルにとっての救いの原体験とも言える出エジプトを思い出させるものでした。道のないところに道が開かれていく。それは神へと立ち返る道。そこには主の栄光が現れます。

 わたしたちも罪に捕らわれています。わたしたちも罪から解放されねばなりません。わたしたちも裁かれ、罪が贖われ、神に依り頼む者と変えられていくのです。そして、わたしたちも主へと立ち返る旅、主が道なきところに道を開かれることを経験していく必要があるのです。罪とは的外れという意味。咎とはゆがんでいて先が見えず迷ってしまうことです。わたしたちの内には罪も咎も満ちています。しかし、主が道を備え、開いてくださり、わたしたちは主の栄光が現れるのを見るのです。栄光とは、神が救いの神であることが明らかになることです。神にこそわたしたちの救いがあることを知るのです。

 6節「声が聞える、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。」預言者は呼びかける言葉を知りません。未来を切り開くのは、神の言葉です。その神の言葉を聞かなくては預言者は語れません。
 6節「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉は、とこしえに変ることはない」。よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、「あなたがたの神を見よ」と。」(6~9節)
 「神の言葉は、とこしえに変ることはない」と言われたとき、神の民はこれまで聞いてきた神の言葉を思い起こします。そして自分たちが真実な言葉を聞いてきたことを確認するのです。

 捕囚前、預言者が語る神の言葉は、拒絶されてきました。拒絶されてきたからこそ、バビロン捕囚に至ったのです。この預言が語られたときだって拒絶されたかもしれません。捕囚が終わる見通しなんか立たない状況で語られた預言です。「何を言っているんだ。爺さんだって親父だってずっと祈ってきた。でも(祈りが)聞かれることなく、ここ(バビロン)で死んだんだぞ。」とくってかかられるかもしれません。バビロニアの役人の耳に入れば、逮捕されるかもしれません。けれど預言者は語らねばなりません。神の言葉を聞くのでなければ、神へと立ち帰ることはできません。だからこそ、預言者は「強く声をあげよ、声をあげて恐れるな」と命じられます。神の真実な言葉こそ「よきおとずれ=福音」なのです。よき知らせ(福音)=救いは神から来るのです。

 神は、わたしたちによい知らせを告げてくださいます。例え現実の中に希望を見いだせない時であっても、とこしえに変わることのない神のよい知らせに心開くとき、わたしたちは救いの中に入れられ、確かな希望を持つことができるのです。

 10節「見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いは、そのみ前にある。主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる。」(10~11節)
 「見よ」と繰り返して神を指差します。9節の終わりにも「あなたがたの神を見よ」とあります。主を仰ぎ見るとき、主がわたしたちを養い、導きかれることを知ります。主は真実な方です。主はわたしたちを見捨てることも見放すこともなさいません(ヨシュア 1:5)。主こそわたしたちの牧者、羊飼い。この真実な神が、わたしたちを救いへと導かれるのです。

 だから、わたしたちは神の真実に支えられて「待つ」のです。
 待降節は、神にあって「待つ」ことは決して空しくならず、喜びに至ることを覚える時なのです。

ハレルヤ

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