聖書の言葉を聴きながら

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ローマ人への手紙 1:5〜7

2016年11月13日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙 1:5~7(口語訳)

 

 パウロはローマの教会に手紙を書いています。彼はローマにまだ行ったことがありません。会ったことのない人たちへの手紙です。パウロは、まだ会ったことのないローマの人たちに対して、自分たちに共通することを書きます。
 1節でパウロは「召されて使徒となった」と書き、7節で「召された聖徒一同へ」と書きます。6節でも「あなたがたもまた・・召されてイエス・キリストに属する者となった」と書いています。自分たちに共通する大切なこととして、パウロは「召し」を語ります。

 召しはパウロにとって信仰の第一歩でした。使徒行伝9章に彼の召しの原体験が書かれています。熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教徒を神を冒涜する滅ぼすべき者たちと考えていたパウロ、このときはサウロと名乗っていましたが、その彼がキリストによって捉えられる場面です。「突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。」(使徒9:3~6)彼は熱心な信仰者、神を信じる者でした。しかしこの体験は、信仰とはキリストによって捉えられ召されたものであることを決定的に知らされる出来事でした。主は、迫害者でるパウロを選び、救いの中に招き入れてくださったのです。

 近代に入って個人の権利が重んじられるようになる中で、キリスト者の信仰も自分の好きなように信じてよいと考える人が増えてきました。自分が好きなように信じるということは、自分好みの偶像を作り上げることです。キリスト教の信仰の基本は、真の神に立ち帰ることであり、そのためにはキリストの救いが必要である、ということです。そのために、神の言葉である聖書が語られ、イエス キリストが証しされるのです。わたしたちの社会は民主主義の社会ですが、1節で言われているようにわたしたちは僕であり、4節に言われているとおり主はイエス キリストなのです。わたしたちは罪人である自分自身からも解放される必要がありますが、現代は人権を語りながら、個人個人を自分の願望・欲望の奴隷としつつあります。
 しかし聖書は、わたしたちが本当に自分らしく喜びと希望をもって生きるには、神に立ち帰ることが必要である、と告げています。わたしたちは、神によって神にかたどって造られ、神に愛され、神と共に生きるものとして造られた。罪に導かれて生きるのではなく、神に導かれて神と共に生きるように召された、ということを聖書は告げています。

 「あなたがたもまた・・召されてイエス・キリストに属する者となった」(6節)とパウロは語ります。「あなたがたもまた」と言われているとおり、すべてのキリスト者が召されてイエス・キリストに属する者となった」のです。この点で、このローマ人への手紙は、わたしたちに宛てて書かれた手紙でもあります。パウロはわたしたちを知りません。わたしたちに会ったことがありません。けれども、わたしたちには共通点があります。共に「神に愛され、召された聖徒」たちであり、「イエス・キリストに属する者」(7節)とされた者たちです。

 キリストに属する者とされたことによって、わたしたちはキリストご自身に与る者とされました。イエス キリストは真に神であり、真に人であるお方です。主にして僕となられたお方です。わたしたちは、自分の賜物、自分の人生を自分で判断して用いています。しかし主の僕として、御心にかなうように自分の賜物も時間も用いていくのです。例えば、わたしたちは何でも語ることができます。しかし、何を語ってもいいのではなく、主キリストの愛と恵みを分かち合う言葉を語るのです。

 さらにわたしたちはキリストの三職、つまり預言者・王・祭司の務めを担う者とされました。
 だからパウロは言います。「わたしたちは、その御名のために、すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと、彼によって恵みと使徒の務とを受けた」(5節)のだと。わたしたちは、神と共に歩み、神の救いの御業に仕える者、キリストの御業に仕える者とされたのです。このキリストによって与えられた恵みと務め、教会は2000年の時を超えて担い続けてきました。「あなた方も神によって召されている神に愛されている者なのだ」ということを宣べ伝えてきました。この恵みと務めにわたしたちも今、与っているのです。

 パウロもキリストから託され、教会が代々に担ってきた務めによって、わたしたちもキリストへと導かれ、救いへと招き入れられました。わたしたちは、代々のキリスト者たちと共にキリストに属する者とされ、今救いのただ中にあり、神の祝福を受けています。
 そしてキリスト者は、すべての人、すべての被造物が神の祝福に与ることを祈ります。

 この手紙の挨拶も、祝福の祈りで閉じられます。「わたしたちの父なる神および主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。」(7節)毎週の礼拝も祝福で終わります。神が祝福していてくださり、祝福に与ることを願っていてくださるからです。
 わたしたちが誰かを訪ねたり見舞ったり、いろいろな機会にわたしたちが願うことは、神がその人と共にいてくださり、神が祝福してくださることです。そして、そのことを祈り願うことのできる確かな根拠は、神ご自身の御心であり、救いの御業です。キリストはその十字架と復活によって、それが確かであることをわたしたちに証ししてくださいました。例えわたしたちがそれぞれにどんなに欠け多く弱さを負っていたとしても、そのわたしたちを知って、愛して、召してくださった主が「わたしに願いなさい、祝福を願いなさい、あなたがたは祝福を受け継ぐために召された(1ペテロ 3:9)のだ」と語りかけてくださいます。ですから、パウロはまだ会ったことのない主にある兄弟姉妹たちへの祝福を願うのです。

 この手紙を読んでいく皆さんが代々の聖徒たちと同じように、キリストと新たに出会い、その信仰が祝福され、深められ、育まれ、主にある喜びに満たされていくように心から願います。

 

ハレルヤ