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聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ルカによる福音書 20:27〜40

ルカによる福音書

2016年11月20日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 20:27〜40(口語訳)

 

 ユダヤ教の中にサドカイと呼ばれるグループがありました。このグループに属する人がサドカイ人と呼ばれていました。彼らは復活を信じていませんでした。使徒行伝23:8でも「サドカイ人は、復活とか天使とか霊とかは、いっさい存在しない」と言っているとあります。

 そのサドカイ人のうちの何人かがイエスに近寄ってきて質問します。「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もしある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだなら、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。ところで、ここに七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、そして次男、三男と、次々に、その女をめとり、七人とも同様に、子をもうけずに死にました。のちに、その女も死にました。さて、復活の時には、この女は七人のうち、だれの妻になるのですか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。(28~33節)

 これは、申命記25:5, 6の規定に基づく疑問です。そこにはこうあります。「兄弟が一緒に住んでいて、そのうちのひとりが死んで子のない時は、その死んだ者の妻は出て、他人にとついではならない。その夫の兄弟が彼女の所にはいり、めとって妻とし、夫の兄弟としての道を彼女につくさなければならない。そしてその女が初めに産む男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名をイスラエルのうちに絶やさないようにしなければならない。」これは家系が絶えないように、少し言葉を代えれば、神の民が絶えないように定められた規定です。

 わたしたちは聖書を読むと、理解するために解釈します。その時、神の御心も御業も知らない罪人は、罪人の論理で聖書を解釈し、理解しようとすることがあります。サドカイ人は、聖書の規定について考える中で「こんな場合どうなるのだ、復活などあり得ないだろう」と思って、イエスにその疑問をぶつけました。

 この申命記の規定は、今のわたしたちには全くピンとこない規定なので、もう少し今のわたしたちが考える問題に置き換えてみましょう。わたしたち改革派教会の伝統に立つ教会では、大切な教理の一つに「選び」があります。申命記にはこう記されています。「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた」(申命記7:6)。罪人はこの神の「選び」という言葉を聞くとここからいろいろ考え始めます。誰が選ばれていて、誰が選ばれていないのか、わたしは信仰を持っているから選ばれているのか、信仰を持たずに死んだ人は選ばれていないのか。信仰を持っていたけれども、途中で信仰を捨て教会を離れた人は選ばれていないのか。「選び」を理解するために、わたしたちは聖書に様々な問いかけをし、解釈をします。
 聖書を、神の御心を理解するため、わたしたちは聖書を解釈します。先ほどわたしは、罪人は、罪人の論理で聖書を解釈し、理解しようとすることがある、と言いましたが、「選び」はまさに今もなお罪人の論理で解釈され、理解されることの多い事柄です。ですが、きょうの聖書は「選び」がテーマではないので、これ以上「選び」に深入りすることはいたしません。

 わたしたちがサドカイ人の問いかけから心に留めておきたいのは「聖書の御言葉に留まることが大切だ」ということです。人間の論理で、聖書が語っていないことまで聖書が語っているかのように解釈しない、ということです。神が聖書を通してわたしたちが知るべきこととしてお語りくださっているところに留まることが大事です。

 さてイエスはこの問いかけに対してこうお答えになりました。「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。」(34~36節)
 イエスはまずサドカイ人の考えた譬え話が、神がなさる復活と、神の国に当てはまらないことを言われます。神が復活させる者は天使に等しい死ぬことのない神の子であり、そこではめとったり、とついだりすることはないのです。救いの完成に与る者は、この世とは違う神の国で生きるのです。

 さらにイエスは言われます。「死人がよみがえることは、モーセも柴の篇で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、これを示した。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」(37, 38節)。

 イエスは出エジプト3:2以下の御言葉を引用してお語りになります。「主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」。主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。」(出エジプト3:2~6)

 イエスが引用された「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という御言葉を聞いて、多くの人は復活ということを考えないのではないかと思います。わたしなら聖書が復活について語っているのを示すのに、別の御言葉を選びます。例えばヨブ19:26「わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。」だとか、ダニエル12:2「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり」というような御言葉の方がより復活を証ししていると思います。
 そして「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と聞くとき、わたしは「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であったようにあなたの神である」と理解してしまいます。つまり、かつてアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であったように、今はあなたの神である」というように「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であったのは過去のこととして考えてしまいます。しかし、イエスの言葉を聞くとき、それでは不十分であることが分かります。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるもの」であることをイエスは明らかにされたのです。神が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と名乗られるとき、それはあなたの先祖の神であるということを示すだけでなく、アブラハムもイサクもヤコブも主にあって今も生きている。神は「生きている者の神」であり「人はみな神に生きるもの」という神の秘義、命の奥義を示す名であったのです。

 聖書を読むときには、わたしたちの理解の中に神を閉じ込めて小さくしてはなりません。罪人の論理で聖書が言っていないことを言っているかのように勘違いしてはいけません。2ペテロ3:16ではパウロの手紙をさして「その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている」と指摘しています。
 わたしたちは、神を自分の理解の中に閉じ込めるのではなく、御言葉によって信仰を育まれ新しくされていくのです。2コリント3:18に語られているように「わたしたちはみな・・栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」のです。それをわたしたちの教会は「御言葉によって改革され続ける」と表現したのです。

 きょうのこの箇所は、単に復活はあるということを教えているのではありません。わたしたちが、イエス キリストによって、罪人の論理、この世の論理から解き放たれ、救いの恵みの中で、新しく神を知っていく、新しく神に出会っていくということが証しされているのです。まさしくイエス キリストこそ、わたしたちのよい羊飼い(ヨハネ10:11, 14)、真の神へとわたしたちを導く真実な牧者なのです。わたしはこの箇所を読まなければ、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という神の名の中に、神は「生きている者の神」であり「人はみな神に生きるもの」という神の秘義、命の奥義に気づくことはなかったでしょう。まさにイエス キリストは、ヨハネによる福音書1章で言われているように、神の言です。わたしたちは神の言であるイエス キリストの御言葉と御業を通して神の御心を知り、繰り返し繰り返し神と出会い、新しくされていくのです。

 

ハレルヤ