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聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 20:20〜26

ルカによる福音書

2016年11月6日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 20:20〜26(口語訳)

 

 イエスはエルサレムに来ておられます。十字架を負って、救いの業を成し遂げるために、エルサレムに来られました。
 イエスは、エルサレムに来ると、神殿で人々に教えておられました。そこに祭司長や律法学者、長老たちが来て、9節以下に記されている譬えを語られました。祭司長や律法学者、長老たちは、この譬えが自分たちに当てて語られたと気づき、イエスに手をかけようと思いましたが、そこにいてイエスの話を喜んで聞いている民衆を恐れました。
 そこで彼らは、義人を装うまわし者を送りました。義人を装うとは、いかにも信仰を求めているかのように振る舞うということです。彼らの目的は、イエスをローマ総督に引き渡すための言葉じりを捕らえるためでした。このときエルサレムは、ローマ帝国の支配下にありました。ローマから総督が派遣されており、この総督の許可がなければ、誰かを死刑にすることはできませんでした。つまり、このときエルサレムの指導者たち、祭司長、律法学者、長老たちは、イエスを死刑にするためにまわし者を送り込んできたのです。

 彼らはイエスに尋ねてます。「先生、わたしたちは、あなたの語り教えられることが正しく、また、あなたは分け隔てをなさらず、真理に基いて神の道を教えておられることを、承知しています。」さすがはまわし者。おべっかを使いつつも、抜かりはありません。1~8節のところでは、逆にイエスに質問されて、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい」(8節)と答えを拒絶されましたから、今度は答えを拒絶されないように、上手に質問します。
 彼らは尋ねます。「ところで、カイザルに貢を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」(22節)。カイザルは(ローマ)皇帝という意味です。
 これは上手な質問です。「よい」と答えても、「いけない」と答えてもイエスを窮地に追い込むことのできる質問です。
 「納めてもよい」と答えた場合、民衆はイエスに失望します。民衆は、神の民が異邦人に支配されているのを不満に思っています。もしイエスがローマ帝国よりの答えをすれば、民衆の思いはイエスから離れます。そうしたら、指導者たちは民衆を恐れることなく、イエスに手をかけることができます。
 「納めてはいけない」と答えた場合、指導者たちはイエスを総督にローマ帝国に反逆する者として訴えることができます。そして総督がローマ帝国への反逆罪で死刑にしてくれるでしょう。
 この質問は、イエスに答えさせればよいだけの、彼らにとっては実に都合のいい質問なのです。

 しかし、イエスは彼らの思いを知っておられます。イエスの前でどのように取り繕ってみても、それは意味がありません。イエスはわたしたちの本当の思い、本当の姿を知っておられます。ペテロがまだ自分の罪にも弱さにも気づいておらず「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」と言ったときにも、イエスは「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」(22:33, 34)と言われました。イエスの前でわたしたちは本当の姿を隠すことはできないのです。
 イエスは言われます。「デナリを見せなさい。それにあるのは、だれの肖像、だれの記号なのか」。彼らは答えます。「カイザルのです」。するとイエスは彼らに言われます。「それなら、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」(24, 25節)。
 デナリというのは、ローマの銀貨で、多くの人々が使っていた銀貨です。当時、1デナリは労働者の日当で、仕事終わりにデナリ銀貨を1枚渡せばよかったので、多くの人々が常に持っていた銀貨です。この銀貨には、皇帝アウグストゥスの横顔と銘が刻まれていたといいます。ですからそれにあるのは、だれの肖像、だれの記号なのか」と聞かれたとき、彼らは即座に答えました。「カイザル、皇帝のです」。それに対してイエスはお答えになります。「それなら、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。

 イエスの言葉じりを捕らえようとして送り込まれたまわし者たちは、絶句してしまいました。「カイザルに貢を納めてよい」と答えても「よくない」と答えても大丈夫な、最高の質問をしたのに、彼らは言葉を失いました。なぜでしょうか。それは「神のものは神に返しなさい」というイエスの答えが、あまりに衝撃的だったからです。

 わたしたちにはこの「神のものは神に返しなさい」という言葉は抽象的に思えます。しかし、この場にいる人々にははっきりと分かったのです。デナリ銀貨には皇帝の肖像と銘が刻まれていました。それでは、神の肖像と銘が刻まれているものは何か。創世記には「神は自分のかたちに人を創造された」(創世記1:27)とあります。この場にいた人々は皆、この創世記の言葉を思い起こしたことでしょう。イエスの答えは、そこにいた人々の思いを神の言葉へと導き、神の言葉の前に立たせました。

 人々は考えます。「そうか、神のかたちに造られ、神の名を帯びて生きるわたしは神のものか。」「では、わたしを神に返すとはどうすることなのだろうか。」皆イエスの答えに驚き、神の言葉の前で黙ってしまいました。
 神に返すというのは、神の御前に差し出すというイメージです。わたしは2つの場面を思い起こします。
 一つはエデンの園で、善悪を知る木の実を食べ、最初の罪を犯したアダムとエバは、主なる神の歩まれる音を聞いたとき、神の顔を避けて、園の木の間に身を隠しました(創世記3:8)。
 もう一つは、ペテロがイエスの言われたとおり、3度イエスを知らないといった後で、イエスは振り向いてペテロを見つめられました。するとペテロはイエスの言葉を思い出し、外へ出て、激しく泣きました(22:60~62)。

 わたしたちは、わたしたちの嘘偽りのない本当の姿を知っておられる神の前に立つことはできないのだと思います。イエスのこの言葉を聞くとき、自分を神に帰すことができない、恐くて、悲しくてできない、そのことに気づかされるのだと思います。パウロもこう叫びます。「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ7:24)。自分は神の御前に立つことはできない。そのことに気づき、自分の中の望みがついえたとき、そのとき、わたしたちはイエスと出会っていくのだと思います。パウロもこの叫びの後でこう語ります。「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」(ローマ7:25)。

 わたしたちは、イエス キリストに依らずしては神に立ち帰ることはできない。神の御前に立つことはできない。そして自分を偽ったままでイエスと本当に出会うことはできません。
 先ほどパウロの言葉を紹介しましたが、パウロが使徒行伝に記されている回心の出来事があってから、この手紙を書くまでに20年以上の時が経っています。彼は自分の罪、自分の惨めさを思いながら、繰り返し繰り返しイエスと出会っていったのです。パウロは別の手紙ではこう語ります。「わたしが既にそれを得たとか、既に完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである」(ピリピ3:12)。

 神は、わたしたちがイエス キリストに本当に出会えるように、さらに深くイエス キリストの救いに与っていくことができるように、わたしたちを繰り返し繰り返し御前へと招き続けてくださるのです。イエス キリストに出会い、さらに深く救いに与っていく中で、わたしたちは神のものである自分自身を神に返していく、神の御前に差し出していくことができるのです。ヘブル人への手紙はこう語ります。「兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所に入ることができ」るのです(ヘブル10:19)。
 教会に集うお一人お一人が、イエス キリストの救いに深く深く与り、神へと立ち帰ることができるよう祈ります。

ハレルヤ