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聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ルカによる福音書 20:1〜8

ルカによる福音書

2016年10月9日(日)主日礼拝

聖書箇所:ルカによる福音書 20:1〜8(口語訳)

 

 イエスはエルサレムに来られました。イエスは神殿で毎日教えておられました。祭司長、律法学者また民衆の主だった者たちはイエスを殺そうと思っていました。本来なら率先してイエスに従うはずの人たちが、イエスを殺そうと思ったのです。彼らは、自分たちよりイエスが尊敬されるのが我慢なりませんでした。彼らは、イエスによって誇りが傷つけられたのです。けれど、民衆がみな熱心にイエスに耳を傾けていたので、手を出すことができませんでした。

 ある日、イエスが神殿で人々に福音を語っておられるところに、祭司長や律法学者たちが長老たちと共に近寄ってきて、イエスに問いかけました。
 「何の権威によって神殿で教えているのか。そうする権威を誰かが与えたのか。答えなさい。」
 イエスはそれに対して答えて言われます。
 「それでは、わたしも一つ尋ねよう。答えてほしい。ヨハネバプテスマ、洗礼は、天からのものであったのか。それとも人からのものだったか。」
 彼らは互いに論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。しかし、もし人からだと言えば、民衆はみな、ヨハネを預言者だと信じているから、わたしたちを石で打つだろう」。それで彼らは「どこからか、知りません」と答えた。

 上手な答えです。この世で生きるには、こういう上手さが必要になるときがあります。しかし、わたしたちは知っていなくてはなりません。わたしたちは、語りかけ、応答する関係の中で生きているのです。

 人が初めてエデンの園で罪を犯したとき、神が近づいてこられるの感じたアダムとエバは「神の顔を避けて、園の木の間に身を隠しました。」(創世記 3:8)この罪ゆえに神を避け、神から隠れるようになった人間に対して、神は「どこにいるのか」(創世記 3:9)と問いかけてくださいました。神が問いかけてくださったからこそ、人は罪を犯してなお神に答え、神に立ち帰る者とされたのです。
 わたしたちにとって、語りかけ・問いかけに答えるというのは、とても大事なことなのです。
 祭司長、律法学者、長老たちは、イエスの問いかけによって、神に立ち帰るチャンスを与えられていたのです。しかし、彼らは答えませんでした。上手にはぐらかしてしまいました。彼らは、神に答え、神の御前に立つことよりも、自分の立場、自分の誇りを優先してしまいました。

 イエスがエルサレムに来られたのは、十字架を負うためです。罪人を救うために、自分の命さえもお献げくださるイエスの言葉は、救いへの招きの言葉でした。それに答えることを避けた、あるいは逃げた彼らに対して、イエスは「わたしも何の権威によってこれらのことをするのか、あなた方に言うまい」と言われたのでした。彼らが神の御前に立つことから逃げていることに気づかせるための言葉でした。

 毎週の礼拝が、聖書朗読と説教という神の語りかけに対して、信仰の告白という応答が続くのは、神の語りかけに対して答えていくためです。決して形式上のことではありません。
 わたしたちは、聖書は神の言葉であると告白しています。わたしたちにとって、聖書が語られる時、それは神がわたしたちに語りかけておられる時です。聖書の勉強をしているのではなく、わたしたちの救いを願い、今もわたしたちに語りかけてくださる生ける真の神との出会いの時です。神の言葉を聞くとき、神が何を語りかけ、問いかけておられるのかを心静めて考えて頂きたいのです。そして神の言葉に応答して、神の御前に立っていく、神に出会い、神に答えていく、そういう経験を重ねていって頂きたいと心から願います。

ハレルヤ