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ルカによる福音書 3:1〜22

2016年1月3日(日)主日礼拝

 

聖書箇所:ルカによる福音書 3:1〜22(口語訳)

 

 皇帝テベリオ在位の第十五年、ポンテオ・ピラトユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主、アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。(1, 2節)
 ルカは、このような書き方で、皆がよく知るこの時代に神の御業がなされたことを伝えようとしています。
 そして、神が預言者をお立てになったことを記します。


 預言者の名はヨハネ。彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えました(3節)。
 バプテスマとは洗礼のことです。この時代は、ヨルダン川で全身を水に浸し、罪の洗い清めを行うというものでした。これはお守りやお祓いといったものではなく、神の許に立ち帰り、神に従って新しく生きるという信仰の決断を伴う悔い改めの洗礼でした。1:77のザカリヤの預言で「罪のゆるしによる救を、その民に知らせる」と言われ、1:16の天使ガブリエルの御告げでは「イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせる」と言われていた出来事です。
 罪は儀式によって自動的に清まるのではなく、神に赦されることによって清められるのです。そして赦しには、神への立ち帰り、悔い改めが求められるのです。
 ヨハネは、神に立ち帰る信仰の決断へと人々を招くために、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えたのです。


 これは預言者イザヤの預言を、神が成就されたのです。すなわち/「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、人はみな神の救を見るであろう」(4〜6節)。
 罪に留まったままでは、神の救いを見ることはできません。これは、神の救いに与ることはできない、あるいは神の救いを経験することはできない、ということです。


 ヨハネの洗礼が話題となり、多くの人のうわさとなると、ブームのようになって多くの人々が集まってきます。それには15節にあるように、ヨハネが救い主ではないのか、と考えうわされたことも影響しているでしょう。


 ヨハネは集まった大勢の人々に、悔い改めが必要であることを厳しく伝えます。「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」(7〜9節)。
 罪を軽く考え、神を侮る者は裁きを受けることを、ヨハネは伝えます。悔い改め神に立ち帰るところに命があることを伝えます。ヨハネはまさしく預言者でした。
 かつて神は預言者エゼキエルにこう言われました。「悪人がもしその行ったもろもろの罪を離れ、わたしのすべての定めを守り、公道と正義とを行うならば、彼は必ず生きる。死ぬことはない。その犯したもろもろのとがは、彼に対して覚えられない。彼はそのなした正しい事のために生きる。主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか」(18:21〜23)。


 どうしたらよいのか、と尋ねる人々に、ヨハネは分かち合うことと、奪わぬことを教えます。(10〜14節)


 民衆は救主を待ち望んでいたので、みな心の中でヨハネのことを、もしかしたらこの人がそれではなかろうかと考えていました(15節)。
 けれど預言者は、自らを高くし、自分に敬意を集めることをしません。ヨハネは皆に救い主を指し示して語ります。「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」(16, 17節)。


 救い主は、聖霊による清めを行う方です。聖霊と火という言い方をしているのは、聖霊によって精錬されるというイメージです。1ペテロ 1:6, 7にはこうあります。「今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。」
 救い主は、聖霊によってわたしたちを清め、「さんびと栄光とほまれ」に変えてくださるお方なのです。使徒パウロも「恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである」(ローマ 15:16)と言っています。


 こうしてヨハネは神から託された務めを果たしていきます。けれど、彼は領主をも非難し、獄に閉じ込められることになります(18〜20節)。


 ヨハネが獄に入れられる前に、イエスも彼のもとに来て、洗礼を受けられました。先に言われているように、ヨハネの洗礼は「罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマ」です。これは本来イエスに必要のないものです。自分に必要のないものであっても、わたしたちの前に救いの道を開くために、イエスは洗礼を受けられました。イエスは、受け入れる余地がなくても、世に来てくださいました(2:7)。自分の思いが理解されなくても、一緒にナザレに下り、両親に仕えられました(2:51)。そしてここでも、わたしたちの救いのために、ご自身に必要なくても洗礼を受けられるのです。


 その時、天が開けて、聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(21, 22節)。


 神のひとり子が、神の栄光の座を離れて身を低くして、わたしたちのために仕えてくださる、清めてくださる、救ってくださる。これが、わたしたちを造り、わたしたちを愛し、わたしたちを救ってくださる神の御心なのです。

 

ハレルヤ