聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 2:41〜52

2015年12月30日(水)祈り会

 

聖書箇所:ルカによる福音書 2:41〜52(口語訳)

 

 イエスの両親、ヨセフとマリヤは、毎年過越の祭にはエルサレムへ旅をしていました。それは、旧約の規定で過越のいけにえを屠るのは、主がその名を置くために選ばれたところ、すなわちエルサレムの神殿でなければならない、からです。


「あなたの神、主が賜わる町の内で、過越の犠牲をほふってはならない。ただあなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、夕暮の日の入るころ、あなたがエジプトから出た時刻に、過越の犠牲をほふらなければならない。」(申命記16:5, 6)


 イエスが12歳になったとき、ヨセフとマリヤはイエスを連れてエルサレムへ行きました。ユダヤの男子は13歳が成人でしたので、成人男子として務めを果たせるように準備を始めたということです。

 祭りの期間が終わって帰路についたとき、イエスはまだエルサレムに残っておられたのですが、両親はそれに気づいていませんでした。過越の祭に行くのはヨセフとマリヤだけではありませんでしたから、イエスが同じ方向に向かう道連れの中にいるものと思って、一日分の道のりを行ってしまいました。それから、親類や知人の間を捜し回りましたが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返しました。

 

 三日の後、ヨセフとマリヤは、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけました。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていました。

 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです。」
 すると、イエスは言われた。「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか。」

 イエスは聖霊の働きによって生まれた神の子です。どこかで救い主としての使命に目覚めたのではなく、生まれながらに神の子なのです。神の名が置かれた神殿こそ自分の父の家であると知っておられました。救い主としてこの神殿に来て、神を証ししなければならないことを知っておられました。
 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分かりませんでした。

 

 イエスが生まれる前、ヨセフもマリヤも天使の御告げを受けました。それでも、イエスが神の子であることが理解できていませんでした。それでもなお、イエスはヨセフとマリヤと一緒に下って行き、ナザレに帰り、彼らに仕えてお暮らしになりました。神の御子が来たのは「仕えられるためではなく、仕えるため」(マルコ 10:45、マタイ 20:28)なのです。

 お生まれになる時もそうでした。受け入れる余地のないところに(ルカ 2:7)天から下ってこられました。そしてまた、自分の言葉が理解されなくても、イエスはヨセフとマリヤと共に下って行かれます。余地がなくても、理解されなくても、イエスはわたしたちのところへ下って来られ、仕えてくださるのです。

 

 救い主は、その活動を公に始める前から、わたしたちに仕えていてくださいました。礼拝もサービス(仕える)と言われます。わたしたちが神に仕えるだけでなく、神がわたしたちの救いのために仕えてくださっているからこそ、わたしたちも神に仕えることができるのです。いつだって先行する神の御業があり、神の御業に救われ、支え導かれて、わたしたちは主と共に救いの道を歩むのです。


ハレルヤ