聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 2:1〜20

2015年12月20日(日)主日礼拝

 

聖書箇所:ルカによる福音書 2:1〜20

 

 ルカはついにイエスの誕生の物語を語り始めます。
 ローマ帝国の初代皇帝アウグストから、ローマが支配する全域の人口調査をせよとの勅令が出ました。ルカはこれを「全世界の人口調査」(1節)と言っています。ローマ帝国がいかに広大な地域を支配する強大な国であったかが分かります。そして、アウグストがどんなに大きな権力を持った人物であるかが分かります。彼によって、ローマの平和(パックス ロマーナ)というように言われるようになりました。アウグストとは、尊厳ある者という敬称です。
 人口調査をする目的は、所有するものを把握するためです。どれだけの税金を集めることができるか、兵士として徴用することのできる成人男子はどれだけいるのか。これは本来、イスラエルの民には禁じられていることでした(サムエル下 24章)。人は神に造られた神のものであって、人間の所有のように考えてはならないのです。
 これをユダヤで行ったのは、クレニオというシリアの総督でした。彼も有名な人物で、ヨセフスという人の『ユダヤ古代誌』という本にも名が記されています。


 時の権力者の命令によって、ユダヤの人々も登録をするために自分の出身の町へと向かいます。イエスの父となるヨセフも、ダビデ王の家系でありその血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ダビデの町と呼ばれるユダヤベツレヘムへと向かいました。直線距離でおよそ120km。そこを身重になっていた許嫁のマリヤを連れて旅をしました。
 ところがベツレヘム滞在中に、マリヤは月が満ちて、男の子を産みます。ベツレヘムは人口調査のため人が溢れており、客間に彼らのいる余地がなく、幼子は布にくるまれ、飼い葉桶の中に寝かされました。罪の世は、自分たちの救いのために来られた救い主を受け入れる余地はなく、この世の権力者の命令で右往左往しています。けれど、そのような状況、そのような状態であっても、救い主は来られるのです。今もそうです。わたしたちもこの世のことであたふたしています。思い囚われています。けれど、その余地なき所に神は来てくださり、御業をなしてくださっているのです。


 救い主がお生まれになった夜、羊飼いたちが野宿をしながら羊の群れの番をしていました。すると、主の天使が彼らに近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れました。天使は彼らに語りかけます。「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、天使と一緒になって神を讃美して言います。「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。」(10〜14節)
 救い主の誕生は、野宿をしていた羊飼いたちに告げられました。彼らはベツレヘムの人たちと違って神の御業に心を向けていた、という訳ではありません。彼らも生きていくために自分たちの仕事をすることで精一杯でした。夜通し番をしなければならず、羊を狙う獣に襲われる心配もあるこの羊飼いという仕事は、貧しい者たちの仕事でした。その上、彼らは仕事柄律法をきちんと守ることができず、律法を守る信仰熱心な人々からは軽んじられていました。
 その彼らのところに救い主誕生の最初の知らせが届けられたのです。羊飼いたちに最初に知らせられたのは、救い主がまさしく民全体、すべての人のために与えられ、大きな喜びをもたらすしるしとなるためでした。


 キリストは世の力に振り回される人々のただ中に来られました。このことで手一杯で誰も顧みる者のない中でキリストはお生まれになりました。その誕生の知らせは、貧しく危険な仕事に就いている者たちに最初に知らされました。神の民の中でも軽んじられている者たちに知らされました。天使が告げたとおり、すべての民に大きな喜びを与えるため、救い主ご自身が受け入れる余地のないところに来られ、飼い葉桶に寝かせられる低く貧しい者となられました。
 キリストのもとに来る資格のない者はいないのです。
 羊飼いたちは、天使の知らせに従いキリストのもとに来ました。良き知らせ、福音を聴いて救い主のもとにやってくる。これこそが神のもとに立ち返ることであり、聖書のいう悔い改めです。天使の御告を信じ、導かれた羊飼いたちは、神をあがめ、讃美しながら帰ることができたのです。わたしたちも同じです。礼拝へと導かれ、キリストに出会った者は讃美しながら帰るのです。


 そして、神の御心に従い、御業を受け入れる決断をしたマリアは子どもの誕生に際して与えられたしるしを心に納め、思い巡らしました。
 実は、神の御心を受け入れるのは大変なことです。婚約は破棄されそうになりました(マタイ 1:19)。身重にも拘らず旅をすることになり、泊まるところもない。しかし、思いを超えるしるしによって確かに神の御業であることが告げられるのです。


 わたしたちもこの世にあって日々生きるのに精一杯かもしれません。しかし、救いの業はなされています。思いを超えるしるしが与えられ、神の声が響いているのです。


 恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。(10, 11節)


 きょう、この良き知らせがわたしたちにも告げられたのです。

 

以上