聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 1:57〜80

2015年12月16日(水)祈り会

 

聖書箇所:ルカによる福音書 1:57〜80(口語訳)

 

 天使ガブリエルがザカリヤに告げたとおり、エリサベツは身籠もりました。二人とも年老いていましたが、年老いていたアブラハムとサラにイサクが与えられたように、子どもを与えられました。これは、イサクの誕生の出来事を知っているイスラエルの民に、神が御業をなされたことを証しするものでした。
 身籠もって5ヶ月後、エリサベツは皆の前に出て、神を誉め讃えました(25節)。そして6ヶ月目に、ガブリエルの御告げを受けたマリヤが、エリサベツを訪ね、3ヶ月ほど滞在します。
 そして、エリサベツは月が満ちて、男の子を産みました。

 近所の人々や親族の者たちは、主が大きな憐れみを注ぎ、年老いた夫婦に子どもを与えてくださったことを、ザカリヤ・エリサベツと共に喜びました。
 八日目になり、人々が割礼を施すために集まり、幼子の名前について話していると、エリサベツは「ヨハネという名にしなくてはいけません」(60節)と訴えます。人々は、生まれた子が父祖の名を受け継ぐという慣習にそぐわないとエリサベツに告げ、ザカリヤの考えを尋ねました。ザカリヤは神殿で天使に会って以来、口がきけなくなっていたので、書板を持ってこさせて、それに「その名はヨハネ」と書いたので、みんなは不思議に思いました。
 すると今の今まで言葉を発することのできなかったザカリヤの口が開け、神を讃美し始めました。天使の言葉を信じられなかったザカリヤは、黙って神の御業を見るようにと口が閉ざされました。そして天使が告げたとおりの出来事が起こるのを見たのです。ザカリヤの不信を超えて、神の言葉は出来事となったのです。そして、この神の御業を見届けたザカリヤが、天使の言葉に従いヨハネと名づけた時、ザカリヤの口が開け、讃美を語り出したのです。神の御業が、ザカリヤの不信を打ち砕き、信じられない者から主を讃美する者へと変えたのです。
 ヨハネという名前は「主は慈しみ深い」という意味の名前だと言われます。ヨハネは、主が慈しみ深い方であることを証しし、民が主の慈しみを知ることができるように仕えるのでしょう。務めを与えられた主の導きと恵みがあったことを聖書は「主のみ手が彼と共にあった」(66節)と言っています。わたしたちを救う計画も、その御業も、神ご自身の内にあります。神は、生きて働かれ救いの御業をなしてくださるお方です。

 さらにザカリヤは67節から預言します。この預言は、冒頭の「ほむべきかな」のラテン語から「ベネディクトス」と呼ばれてきました。この預言は、おおきく3つのことを語ります。67〜71節が「救い主」について。72〜75節は「神の契約」について。76〜79節は「ヨハネ」についてです。

 67〜71節は、神がわたしたちを救うために、神ご自身が救いの業をなしてくださり、救い主をお遣わしになる、ということが語られます。ここで救い主について「救の角」という表現が使われます。この言葉は旧約で2回使われています。サムエル下 22:3 と詩篇 18:2 です。どちらも神に呼びかける場面で使われます。
 「わが神、わが岩。わたしは彼に寄り頼む。わが盾、わが救の角、/わが高きやぐら、わが避け所、/わが救主。あなたはわたしを暴虐から救われる。」(サムエル下 22:3)
 「主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。」(詩篇 18:2)
 この「救の角」という言葉を使うということは、神が救い主となってくださることを告げています。真に神である子なる神が、真に人となって世に来られ、救い主となってくださることを指し示しています。

 それは72〜75節にあるように、神の真実な契約が果たされるからです。時の流れの中で、変わることなく、忘れられることなく果たされます。その約束は、75節にあるように、神を忘れさまよっていたわたしたちを、神の御許に立ち返らせ、神と共に歩ませてくださるものです。救い主によって、わたしたちは神と共に生きる恵みに入れられるのです。

 ヨハネは、救い主を指し示す預言者として仕えます。救い主が「罪のゆるしによる救」(77節)をもたらすことを告げ知らせます。そして自身の名前が示すように「主は慈しみ深い」お方であることを証しします。
 「これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう。」(78, 79節)

 

以上