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聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ルカによる福音書 1:26〜38

2015年12月9日(水)祈り会

 

聖書箇所:ルカによる福音書 1:26〜38(口語訳)

 

 6ヶ月目、これはエリサベツが告白した(24, 25節)1ヶ月後、天使ガブリエルがガリラヤのナザレに住むマリヤという女性のもとに、神から遣わされてやって来ました。
 女性というと現代のわたしたちは20代ぐらいの女性を想像するかもしれませんが、当時婚約するぐらいの年齢の女性はまだ10代、高校生か大学に入ったばかりぐらいの年齢だと思われます。

 

 天使ガブリエルはこのマリヤのところに来て、語りかけます。「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます。」(28節)

 天使は祝福の言葉を語ります。しかし、マリヤはこの言葉に戸惑いを覚えます。「このあいさつはなんの事であろうか」
 ガブリエルはマリヤの気持ちに気づいて語ります。「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。」(30節)
 聖書で「恐れるな」と言われるとき、それは人間なら恐れずにはいられない状況にあるのです。恐れているから、恐れずにはいられないから、神は「恐れるな」と言われるのです。ここでガブリエルはあなたは神から恵みをいただいているのです」と語ります。これは「神からの恵み」は人を恐れさせるということです。神からの恵みは、必ずしも人が望むものではなく、ありがたいものではない、ということです。
 ガブリエルが続けて語ったことは、まさに恐れを感じさせるものでした。「見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう。」(31〜33節)

 

 これは結婚したらそうなる、という話ではありませんでした。信じられない話でした。マリヤもそれに気づいて、ガブリエルに問いかけます。「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに。」(34節)
 ガブリエルは答えます。「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。神には、なんでもできないことはありません。」
 エリサベツの出来事は、マリヤが自分の身に起こったことを受け止めるためのものでした。エリサベツの出来事は、アブラハムの妻サラに起こったことと同じでした。かつて神がご自分の民になさったことをなされた。神が御業をなしておられる、それを証しするものでした。


 しかし、マリヤの身に起こったことは、これまで起こったことのない、神の民が経験したことのない出来事でした。エリサベツの出来事は、マリヤが自分の身に起こったことが神の御業であることを信じるために備えられたことでした。「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。・・神には、なんでもできないことはありません。」
 神は、わたしたちの想像を超えるお方、わたしたちの期待、わたしたちの理解を超えるお方です。その方が、わたしたちのために救いの御業をなさるのです。
 「それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。」(35節)「彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう。」(32, 33節)
 神が救い主をお遣わしくださり、約束を成就してくださいます。罪の支配から救い出し、神のご支配に入れてくださるのです。


 ルカの告げる物語は、大いなる神を指し示します。しかし、神の御業に与る者は大変です。それは、旧約の民を見ても分かります。アブラハム然り、モーセ然り、ダビデ然りです。そして今回は、まだ神の民が経験したことのない神の御業をまだ若い少女が担うのです。預言者エレミヤは、神の召しを受けたときこう答えました。「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」(エレミヤ1:6)モーセも「ごらんのとおり、わたしは、くちびるに割礼のない者です。パロがどうしてわたしの言うことを聞き入れましょうか」(出エジプト6:30)あのモーセもエレミヤも、神の召しの前ではひるみます。しかし、まだ若い少女は答えます。そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。」(38節)

 

 神の御業を受け入れること、神を信じることには恐れが伴います。しかし、神はご自分の民を救いのためにお用いになります。今も、わたしたちの恐れを超えて、神の御業はなし続けられているのです。

 

以上