聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ローマの信徒への手紙 3:1〜4

2019年8月21日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 3:1~4(新共同訳)


 聖書には「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ 20:16)という言葉があります。しかし、先の者は先になりたいのです。先の者としての光栄に与りたいと願います。ユダヤ人は、神の民としては明らかに先の者です。キリスト教の歴史の中で、ユダヤ人はキリストを殺した者たちとして迫害を受けました。しかし、明らかにキリストはユダヤ人として生まれました。あらゆる諸民族に先立って神の民とされた先の者です。
 「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。」パウロは言います。「まず、彼らは神の言葉をゆだねられた」。パウロは「まず」と言っていますが、第二も第三も出てきません。つまり、何よりも大事なことが語られています。

 その何よりも大事なことは「神の言葉をゆだねられた」ということです。ユダヤ人は旧約の担い手です。ユダヤ人がいなければ、わたしたちはアブラハムも、モーセも、ダビデも知りません。詩編の祈りも讃美も知ることがありませんでした。イエスが荒れ野の誘惑で引用(マタイ 4:4)された申命記 8:3 には「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」とありますが、生きることを支える神の言葉がユダヤ人には委ねられたのです。神はユダヤ人に何よりも大切なものとしてご自身の言葉を委ねられたのです。
 けれどユダヤ人だというだけで、皆同じ信仰をもっているわけではありません。罪人を救おうという神の真実に対して、真実をもって応える者ばかりではありません。わたしたちもいつも信仰が成長していくわけではありません。信仰が停滞するときもあるし、冷めるときもあります。しかしだからといって、罪人を救おうという神の真実が無になるのではありません。

 キリストも、自分を裏切る者、自分を知らないと言う者、自分を置いて逃げる者を弟子とされました。キリストの弟子が、裏切ったから、知らないと言ったから、逃げたから、キリストが世に来られたことは無に帰したのでしょうか。そうではありません。キリストの弟子、神の民イスラエル、すべての人が偽り者であっても、罪人を救おうという神の真実はいささかたりとも揺るがないし、罪人の偽りのただ中で光り輝いているのです。

 4節の「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」は訳し方によって、受ける印象が変わる微妙なところです。(例えば岩波版「神は〔あくまでも〕真実な方である、とせよ。逆に人間こそ、ことごとく偽り者なのである」)パウロが言おうとしていることは、罪を抱えている人間は、すべての人が偽りを抱えている。しかし、神は真実なお方である。例え神の民の中に、神に対して真実に生きていない者があっても、神の真実は揺るがないことを心すべきだ、ということです。キリストの弟子、神の民イスラエル、すべての人の偽りが見え隠れするときも、罪人を救おうという神の真実はいささかたりとも揺るがないし、罪人の偽りのただ中で光り輝いているのです。

 パウロはそれを詩編 51:6を引用して、神ご自身がそう言っておられたことを明らかにします。
 「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」
 つまり、神の言葉と御業によって、神の真実が明らかになる。そして罪人は、神の真実によって救われる。神の言葉は、罪人を救おうという神の真実を証しする。神が語られるとき、神の言葉は出来事となり、罪人を救い、義とする。神が裁かれるとき、罪は打ち砕かれ、神は勝利される、のです。
 パウロはここを七十人訳と呼ばれる旧約のギリシャ語訳を引用しています。パウロが引用した七十人訳と、わたしたちが使っている聖書の詩編 51:6とでは、文章の意味合いに少し違いがあります。(詩編 51:6(新共同訳)「あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。」)パウロファリサイ派の一員でしたから、ヘブライ語の聖書にも通じていました。そこを七十人訳ギリシャ語訳)を用いたのは「あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」にキリストの十字架の勝利を思い描いたからかもしれません。

 神の言葉によって、神の真実が示され教えられます。神の言葉によって、今も生きて働かれる神へと導かれます。神の言葉が委ねられるということは、小さな事ではありません。その神の言葉を、ユダヤ人は神から託され委ねられてきたのです。神の救いの御業のために用いられ、神を証ししてきた、そこにこそユダヤ人の優れている点があり、割礼の益があるのだ、とパウロはいうのです。
 そして今、旧約の神の言葉、新約の神の言葉が、わたしたちキリスト者に委ねられています。

 わたしたちは、神の言葉によって、キリストに出会い、神を知る者、神と共に生きる者とされました。神の言葉によって、罪人を救おうとされる揺るがない神の真実を知る者とされました。
 神はきょうも、わたしたちが神の真実に包まれ、救われるように、御言葉を語り続けてくださいます。
 わたしたちキリスト者の優れている点は何か。それは、何よりも神の言葉が委ねられていることです。わたしたちは、神の言葉により、神の真実と愛を知り、父・子・聖霊なる神ご自身を知る者、神と共に生きる者とされているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 聖書を通して、あなたの御心を知る幸いを覚えることができますように。わたしたちの罪にも関わらず、決して揺らぐことのないあなたの真実によって救いに入れられている幸いを喜び感謝することができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ヨハネによる福音書 3:22〜30

2019年8月18日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 3:22〜30(新共同訳)


 ニコデモとの対話から場面が変わります。
 この箇所は、聖書研究をするなら、90分授業を3回ぐらいしなければならないところです。しかし、礼拝でするのは説教であって、聖書研究ではありません。説教は、その聖書箇所を通して神が何をわたしたちに語りかけておられるかを伝えるものです。「神は皆さんにこう言っておられます」と神のメッセージを語るのが説教です。一方聖書研究は、聖句の意味を明らかにしようとするものです。この箇所であれば、イエスユダヤ地方のどこに滞在しておられたのだろうか? 地名が出てくるが、これは現在のどこなのだろうか? 洗礼という言葉が出てくるが、どのように行われていたのだろうか? など聖句の語っている内容を明らかにしようとするのが聖書研究です。
 聖書研究をするなら、きょうの箇所は、重大な問題がいくつかあります。
 一つは、22節に「イエスは・・洗礼を授けておられた」とありますが、4:2を見ますと「洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである」とあります。どちらが正しいのでしょうか。新約が書かれているギリシャ語は、動詞の形が主語の人称や数で変わります。22節の「洗礼を授けていた」という動詞は3人称単数なので、主語は「弟子たち」ではありません。主語は明らかに「イエス」なのです。聖書研究は、このような矛盾と見えるものの説明を追い求めます。
 次に、洗礼者ヨハネの洗礼が出てきますが、これはどのような洗礼だったのでしょうか。ヨハネの洗礼は悔い改めのための洗礼です。イエス キリストの救いに与らせるための洗礼とは違います。では、ヨハネの洗礼を受けた者たちは、改めてイエス キリストの救いに与るための洗礼を受けたのでしょうか?
 などなど、この箇所は考えなければならないと思われることがいくつもあります。
 しかし、聖書が語ろうとしていることは、最後の29, 30節です。ですから、聖書研究は機会があればすることとしまして、説教として語るべき神が語ろうとしておられることに心を向けていきたいと思います。

 2:23に「イエスは・・エルサレムにおられた」とあります。イエスはニコデモとの対話を終えて、エルサレムを離れ、地方に向かわれました。場所は不明ですが、弟子たちと共に滞在し、洗礼を授けておられました。他方ヨハネは、後に捕らえられ、投獄されますが、まだサリム近くのアイノンというところで洗礼を授けていました。
 そこで、ヨハネの弟子たちとユダヤ人の間で、清めのことで議論になりました。清めというのは、ここでは洗礼のことです。洗礼者ヨハネは、人々を悔い改めに導くために洗礼を行っていました(マタイ 3:11)。この議論の内容も具体的には分かりません。けれどおそらく別れ際に「みんなもうイエスのところに行っているじゃないか。ヨハネなんて古いんだよ」といったことを言われたのではないかと思います。
 弟子たちはヨハネの許に来て言います。「ラビ(ユダヤ教の教師に対する敬称)、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」弟子たちも悔しかったのだと思います。人は誰しも自分の所属しているものを誇りたいものです。自分が生まれた土地、住んでいる土地、自分の国、民族、果ては自分の応援しているプロ野球のチームやアイドルグループに至るまで、人は自分とつながりのあるもの、所属しているものを誇りたいのです。

 おそらくヨハネにも弟子たちの気持ちは分かっていたでしょう。しかし、とても大切なことなので、ヨハネは丁寧にそしてはっきりと弟子たちに伝えます。
 「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」天というのは神を指しています。人には神から与えられた務めがあります。「わたしは、『自分はメシア(救い主)ではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。」ヨハネは弟子たちにきちんと自分の務めを明らかにしていました。ヨハネの弟子たちは、ヨハネの証人です。ヨハネが神の委託にどのように応えたかは、弟子たちが証しをします。
 「花嫁を迎えるのは花婿だ。」ヨハネはたとえを使って語ります。花嫁は人々。花婿はイエスです。「花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。」花婿の介添え人、これがヨハネであり、わたしたちを含めたキリストを宣べ伝える者です。ユダヤの婚礼において、介添え人は花嫁を花婿のところへ連れてくる務めを担います。その務めを果たしたら、介添え人は婚礼の舞台から退場します。けれど婚礼は、そのために仕えた介添え人に大きな喜びをもたらします。同様に、人々がイエスの許に集っているのを聞いて、ヨハネは喜ぶのです。イエスご自身が人々に語りかけてくださるのを聞いて、喜ぶのです。
 ヨハネは、旧約においてイスラエルが神の花嫁とたとえられている(イザヤ 54:5)のを使って、弟子たちに人々はイエス キリストの花嫁であって、自分が花婿ではないことを伝えようとしました。

 そして最後にヨハネは「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言います。ここはもう少し正しいイメージを持てるように別の訳を使いたいと思います。それは「その方は大きくなり、私は小さくなっていくだろう」(田川健三 訳)という訳です。この訳の方が、聖書が伝えようとしているイメージを受け取りやすいと思います。
 キリストを証しする者は「この人を見よ」と言ってイエス キリストを指し示します。当然言われた人々は、イエスキリストの方を見ます。ところが、牧師は時に自分が教えたとおりに理解しなければ、イエス キリストに近づくことは許さないとしてしまいがちなのです。本来であれば、ヨハネが言うとおり介添え人同様、皆さんがイエス キリストに出会ったならば、次第に小さくならねばならず、皆さんの目にそして心にイエス キリストが大きく大きく映っていくように、そしてイエス キリストに従い、キリストと共に歩めるようにしていくのが本来なのです。

 しかしこれがなかなか難しいのです。イエス キリストよりも人の方が大きく映ってしまいます。牧師を中心としたのでは、キリストの教会は立たないのに、「牧師を中心に教会を建て」と言われたり、教会を表すのについ「〇〇先生の教会ですね」と言ってしまったりします。

 きょう最初に聖書研究と説教の違いについて触れたのは、わたしたちが主の日ごとに礼拝へと招かれるのは、教養のために聖書の勉強をしたり、知的好奇心を満たすために聖書の解説を聞きに来ているのではない、ということに気づいて頂きたいからです。教会では、御言葉の学びという言い方がされますが、礼拝においては学びが行われているのではありません。礼拝においてわたしたちに語りかけてくださる神の声を聞くのです。聖霊において臨在してくださるイエス キリストご自身に出会い、イエス キリストを通してわたしたちの命と救いの源である神を知るのです。そのために、わたしたちは礼拝に招かれているのです。

 どうか礼拝を通して、本当の救い主であるイエス キリストと出会われますように。聖書と説教を通して、今皆さんに語りかけておられる神の声を聞くことができますように。そして皆さんの中でイエス キリストがますます大きくなり、イエス キリストに満たされていきますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちをイエス キリストに出会わせ、イエス キリストで満たしてください。わたしたちの救いのためにその命を献げ、そして復活してくださったイエス キリストの救いでわたしたちを満たしてください。イエス キリストと共に救いの道を歩ませてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 2:25〜29

2019年8月14日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 2:25~29(新共同訳)


 パウロは、ユダヤ人のしるしである割礼について語ります。
 割礼というのは、男性の性器の皮を切り取る儀式です。これはユダヤ教でだけ行われる儀式ではなく、エチオピアあたりが発祥だとも言われる古い儀式で、多くの民族の間で行われていたものです。
 この割礼については、創世記17章に出てきます。「神はまた、アブラハムに言われた。『だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。』」(創世記 17:9, 10)

 神は割礼をご自身の民のしるしとされました。割礼は多くの民族の間で行われていましたが、神は割礼に特別の意味を持たせられました。それは、割礼が神との契約のしるしであるということです。「包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。」(創世記 17:11)これは、自分自身に刻まれた消えることのないしるしです。罪を抱えた肉を切り捨てて、神と共に生きることを表すしるしです。普段は服の中に隠されており、他の人からは見えませんが、本人には自分が割礼を受けており、神と契約したイスラエルの一員であることを生涯示し続けるしるしなのです。
 この割礼は、自分が神の民であるという誇りでもありました。しかしパウロからすると、自分はユダヤ人、神の民であるという誇りは、信仰の妨げでしかありませんでした。
 パウロはフィリピの信徒への手紙でこう語っています。「肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリピ 3:4~9)

 この中で、きょうとの関わりで最も大事なのは、次の部分です。「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」
 パウロは、ユダヤ人が誇りとするものの一切を損だと思っています。それは「キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」のゆえであり、実際パウロは「キリストのゆえに」「すべてを失」いました。「すべてを失」いましたが、「それらを塵あくたと見なして」いるのです。だからパウロは、自分と同じユダヤキリスト者が、キリスト以外のものを誇りとしていることに対して「それは違う」と思っているのです。自分がユダヤ人であるとか、割礼を受けているとか、旧約の御言葉に通じているとか、そんなものに頼っていてはダメだ、と思っているのです。
 救いの本質は、神と共に生きるところにあります。自分を中心にし、自分に執着する罪から解放され、神を主とする信仰へと新たにされなければなりません。そのためにキリストは世に来られ、命を献げられました。しるしは、キリストを指し示すものであって、しるしが救うのではありません。割礼が救うのでも、洗礼が救うのでもありません。それらはイエス キリストを指し示すのであって、わたしたちはイエス キリストによってのみ救われるのです。

 割礼は、罪を抱えた肉を捨てて、新たにされて、神と共に生きることを示します。もし、割礼を受けていない人が、神の言葉に従って生きていれば、その人こそ神の民、隠れたユダヤ人なのです。割礼を誇る者は、神の言葉に従って生きる人によって、罪が明らかにされるでしょう。
 パウロは言います。「“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」

 わたしたちの救いも誉れも、神から来ます。そして神が、主の日ごとにわたしたちを礼拝へと召し集めてくださるのは、神ご自身と出会い神を知るためです。わたしたちは罪によって、神を忘れてしまいます。神と結び合わせるためのしるしさえも、自分を誇るものにしてしまいます。愛を語り、愛を行っているようであっても、自分が愛を行っている、そう自分で満足し、自分を誇るなら、それは神と共に生きる愛ではありません。
 隣人愛という言葉は、キリスト教会の信仰をしるし付ける言葉です。けれども、それが自分の誇りになってしまったとき、自分がもはや仕えることも愛することもできない、寝たきりで自分は世話を受けるばかりで、家族に迷惑をかけている申し訳ない、そういう風に思ってしまうようになった時、自分の愛を支えとした人は、その時が辛くてたまらなくなります。もし御心に適う業をすることができたなら、自分を誇るのではなく、そのようにできた賜物と信仰を与えてくださった主に感謝するのであって、わたしたちの一切の望みは、神ご自身にこそあるのです。

 パウロの書いたフィリピの信徒への手紙を紹介しましたが、まだわたし自身、自分が今持っているものをすべて塵あくたのように思っているわけではありません。理屈では、頭では分かっていても、これはまだ手放せない、そういうものがあります。けれど、そういうものをすべて手放すようにと導かれる時があります。それが「死」であります。
 一切のものを手放して、親しく生きていた誰からも離れて、本当に神にすべてを委ねて、神に導かれていくその時を、神はわたしたちの生涯の最後に、用意をしておられます。その時に驚き慌てふためくのではなく「わたしがあなたを造った、わたしがあなたを愛している、わたしがあなたを救った」そう言われる神ご自身と出会って、「あぁ主よあなたはこのわたしを捉え語り続けてくださいました。今こそあなたにわたしのすべてをお委ねします」と言って神と共に歩んでいくその時を、神はわたしたちに備えていてくださいます。
 だから、神を知るように、神との交わりに生きるように、神は主の日ごとにわたしたちを召し集め、そして御言葉を語り続けてくださるのです。
 神を誇りとし、神の御心と御業に望みを置く人は幸いです。その人は、わたしたち一人ひとりを愛して止まない、今も生きて働かれる、活ける真の神と出会い、神と共に生きるようになるでしょう。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうかわたしたちをイエス キリストの恵みで満たしてください。わたしたちの誇りも救いも、命も未来も、あなたにあることを知ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 8:31〜34

2019年8月11日(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 8:31〜34(新共同訳)


 「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」
 言わなくてもお分かりと思いますが、「もし神がわたしたちの味方であるならば」とパウロは言いますが、けれどこれは「もし神がわたしたちの味方である」と仮定すると、という話ではありません。パウロは、神がわたしたちの味方であると確信しています。

 パウロの信仰にとって、復活のキリストとの出会いが決定的でした。それにより、イエスがキリスト 救い主であることを知りました。自分が罪人であることを知りました。イエスが罪人の救いのために命を献げ、また復活されたことを知りました。そしてイエス キリストによって、神が罪人の味方であることを知りました。
 それが「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」という言葉に表れています。

 わたしたちは神に選ばれた者たちです。わたしたちが神を求め、神を発見したのではありません。神がわたしたちを選んでくださいました。聖書は告げます。「あなたの神,主は・・あなたを選び,御自分の宝の民とされた。」(申命記 7:6)
 神は、イエス キリストの救いを信じ受け入れたわたしたちを、神の御前で罪赦され義とされた、神の子としてくださいました。キリストの救いに与ることによって、神と正しい関係にある者、義なる者としてくださいました。
 神が他の何ものにも代えがたい独り子の命をかけてまでわたしたちの救いを成し遂げてくださった今、誰がわたしたちを罪に定めると言うのでしょうか。そんなことができるものはいないのです。ただ一人わたしたちを罪に定めることができる神が、キリストのゆえにわたしたちを罪から救うと決められた以上、もはや誰もわたしたちを罪に定めることなどできないのです。
 神は「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡され」るお方です。イエス キリストには、神のわたしたちに対する思いがすべて込められています。イエス キリストこそ、神の言葉です。イエス キリストを仰ぎ見るとき、神がどれほどわたしたちを愛しておられるかが分かります。

 だからパウロは、イエス キリスト以外の救いの根拠を持ち出すことを厳しく批判します。割礼を受けている、断食をしている、たくさん献げ物をしている、たくさん祈っている、施しをしている・・・どれもわたしたちの救いの根拠とはなりません。わたしたちの救いの根拠はただイエス キリストお一人なのです。
 そのイエス キリストは、今も神の右にあってわたしたちのために執り成し続けていてくださいます。

 イエス キリストは、神とわたしたちとの間に立ってくださいます。世の終わりまでわたしたちを執り成してくださいます。イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じように(ヘブライ 2:17)なり、真に人となって世に来られました。
 母マリアの胎に宿り、無力な幼子として世に生まれ、母の胎にも、まだ信仰を持たない幼子にも救いをもたらしてくださいました。
 救い主として歩み出されたときにも、始めに悪魔の誘惑をお受けになりました。「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになる」(ヘブライ 2:18)と聖書は語ります。飢えや渇き、十字架に掛けられるといった肉体的な痛み。理解されない、裏切られる・捨てられる、救おうとしているのに拒絶される、嘲られるという精神的な痛み。それらを受けて苦しまれてなお、「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ 23:34)と執り成されました。
 さらに「キリストは、肉では死に渡されましたが・・霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(1ペトロ 3:19)と聖書が語るように、死者のところにまで救いをもたらされました。
 母の胎から死者たちの霊のところまで、人が存在するすべてのところにイエス キリストは救いをもたらし、わたしたちの執り成し手として、神とわたしたちとの間に立ってくださっているのです。「神は,すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり,神と人との間の仲介者も,人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。」(1テモテ 2:4~6)このイエス キリストを前にして「わたしは救われない」と絶望しなければならない人は一人もないのです。

 だからパウロは「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と言うのです。
 ここに出てくる「すべてのもの」は、28節の「万事が益となるように」が「すべてのことがわたしたちの救いとなるように働く」という意味であったのと同じく、救いに必要な「すべてのもの」を指しています。つまり「イエス キリストは与えられたけれど、これがたりなかったから救われなかった」などということはあり得ない、とパウロは言っているのです。
 パウロは、様々な試練・苦難を経験しました。パウロは最初迫害者でした。だから回心してもなかなか受け入れてもらえませんでした。生前のイエスの弟子ではないと軽んじられました。福音宣教の中で数え切れないほどの困難に出会いました(2コリント 11:23~27)。何度も祈ったけれども癒やされませんでした。そのすべてを振り返ってみても、パウロは何か足りないものがあったとは思わず、救いに必要なすべてのものが備えられ、信仰から信仰へと導かれたと確信しているのです。

 パウロは、3:21から8章の終わりまでキリストの福音について語ります。本当に言葉を尽くして語ります。何としてもキリストの救いに与ってほしい、という熱意をもって語ります。手紙からパウロのその思いが伝わってきます。
 そしてパウロ以上の熱意をもって、神がこの手紙を通して語り続けてこられました。2,000年という時を貫いて語り続けてこられました。今、独り子を遣わされた神ご自身が、皆さんの前にキリストの救いを差し出しておられます。
 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ 20:27)


ハレルヤ


父なる神さま
 御子イエス キリストが、救い主として遣わされているその恵みの大きさを知ることができますように。そして独り子を遣わすほどに愛していてくださるあなたの愛を知ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 2:17〜24

2019年8月7日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 2:17~24(新共同訳)


 新約の中には書簡、手紙と呼ばれるものが21もあります。
 手紙の説教で難しいのは、書かれた当時は説明の必要のないことでも、2,000年も経つと、具体的にはよく分からないことがあるところです。きょうの箇所では「盗むな」とか「姦淫するな」とか「神殿を荒らすな」というのが具体的にどういうこと指しているのか分かりません。きょうは、パウロがここで言いたいことから推測をして、話していこうと思います。

 きょうの箇所では、パウロユダヤキリスト者に向かって語ります。ユダヤキリスト者とは、文字通りユダヤ人のキリスト者のことです。ユダヤキリスト者には、きのうきょう聖書の神を信じた連中とは違う、という自負がありました。「あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています」ということです。
 だから「律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」となるのです。つまり、ユダヤキリスト者は教える人で、その他のキリスト者は自分たちに教えられる人だということです。

 しかしパウロから見ると、ユダヤキリスト者は「あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」ということになるのです。

 「『盗むな』と説きながら、盗むのですか」というのが何を指しているかですが、ここでわたしが思い浮かぶのは、マルコによる福音書 7章で「両親に与えるべきものをコルバン、つまり供え物ですと言えば与えなくてよいとしている」と指摘されている箇所があります。形の上では律法を守っていることにして、実際は神の御心よりも自分の都合を優先しています。またマラキ書 3章では十分の一を献げていないことを盗んでいると指摘されています。このように自分たちはほどほどに、あるいは都合よくしか守らないものを、人にはこうあるべきだと語っていることが指摘されているように思います。

 「『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか」で思い浮かぶのは、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ 5:28)というイエスの言葉です。けれどこれは外からは判断しづらいものです。ここは姦淫について具体的に指摘していないので、次の言葉と一緒に偶像礼拝のことを言っているのかもしれません。旧約では偶像礼拝を姦淫として指摘しています。「偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。」神殿を荒らすというのが何を指しているかですが、これはローマの神々の神殿から献げ物を盗むことではないかという指摘があります。神ならぬ偶像に供え物など無駄なのだからと言って、盗むのです。しかしパウロは、偶像の供え物を盗み、それによって生活していくことは偶像を頼り支えられて生きること、すなわち偶像礼拝、姦淫に他ならない、と言っているのではないかとする考えがあります。
 そしてパウロは、ユダヤキリスト者よ、あなたたちは「あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」と糾弾するのです。

 なぜパウロユダヤキリスト者に対して、このことを厳しく指摘しているのでしょうかか。パウロもまたユダヤキリスト者です。そしてかつてはキリスト教の迫害者でした。パウロは同胞の救いを願っています。このローマの信徒への手紙でも9章からイスラエルの救いについて書いています。パウロは同胞の救いを願い、自分の経験、イスラエルのバビロン捕囚などを思いながら、救いのために厳しく語ります。

 神の民の第一の務めは、神を証しすることです。神を信じて生きることを通して、神を証しすることです。しかし、ユダヤキリスト者の律法に対する姿勢は、本来神の民に託された神を証しするという務めをないがしろにしている。そうしていながら、自分たちはユダヤ人であり、他のキリスト者と違って旧約の神の言葉をよく知っている、神の民イスラエルとしての伝統があるのだと言って誇っている。それは違う、ということをパウロははっきり告げようとしています。
 だからパウロは、ユダヤキリスト者たちがよく知るイザヤ 52:5を引用して「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と言うのです。

 パウロユダヤキリスト者たちに対して指摘していることは、彼らの信仰が神を証ししていない、ということです。それは当然そのようになります。なぜなら、彼らは、神を誇りとし神を証しするのではなく、自分たちを誇りとし自分たちを証ししようとしているからです。自分を誇ろうとしているのですから、律法を正しく守って、神を証しすることは、第二第三のことになってしまうのです。パウロは別の手紙(1コリント 1:31)で、エレミヤ書(9:23, 24)を引用して「誇る者は主を誇れ」と述べています。

 自分はまじめに信仰に生きている。けれど自分が中心になって、自分の信仰や行為に思いが囚われていくと、神の名を語っていても、信仰者のように毎日を生活していても、神を証しするのではなく、自らを誇る信仰に変わっていってしまいます。
 わたしたちの信仰の先輩が起草したウェストミンスター小教理問答は「人の主な目的は、神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶこと」(問1)だと言っています。神の栄光は、わたしたちの造り主・救い主として、わたしたちを愛し抜いてくださるところに現れます。だから神が注いでくださる愛を受けて神を喜ぶのです。自分がどれほどのことをなしたか、自分がどれほど仕えているか、そういうことで自分が立っているのではありません。神がわたしを愛してくださるが故に、わたしは今救いの中に入れられているのです。神がわたしをイエス キリストによって救ってくださったことを信じて生きる、このことを通してわたしたちは神を証しするのです。そしてわたしたちは、わたしたちを愛し救ってくださった神ご自身を誇るのです。

 けれどわたしたちの抱えている罪が、わたしへと思いを引き寄せ、自分を誇りたくなってしまうのです。
 ですから、わたしたちの信仰は、世の終わりまで神の言葉を聞きつつ、神の言葉によって、新たにされ整えられて導かれていくのです。だから教会は、パウロと同じ「救われてほしい」という願いを持って、イエス キリストを証しし続けるのです。
 わたしたちの救いも、誇りも、幸いも、未来も、イエス キリストの許にあるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 聖霊により、わたしたちの思いをあなたへと向けてください。自分を見つめ、自分を誇ろうとするわたしたちを解放し、あなたの恵みによって生きる者としてください。どうか喜びをもってあなたを証ししつつ歩むことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン