聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

名著を入口に聖書に聞く

佐藤 博『名著を入口に聖書に聞く −キリスト教入門二十一講 』(2004年、マナブックス)読了。


 著者が、未信者のための入門講座として行ったものからまとめた本。日本基督教団 京都丸太町教会が創立百周年を記念して出版した本。
 著者は、本を読みながら、聖書のメッセージとつながるものを感じ取っておられる。
 どれも興味深かったが、19講でサリバン著『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』と通して、言葉が魂に届くことを語ったところと、21講でジイド著『贋金つかい』を通して、本物で心・精神が養われ、人が形成されていくことを思い巡らしたことが、特に印象に残った。
 取り上げられた本を実際に読めるとよいのだが、わたしが本を読むのが遅すぎてなかなかそこまでいかないのが残念だ。

 わたしは、小さい頃は本が好きだったが、15歳ぐらいから本を読まなくなってしまった。書店で興味がある本を見ると、買うのだが、読むまでなかなかいかなくなってしまった。おかげでまだ読んでいない本が山のように積まれている。今、手に取ってみても、どれも面白そうな本である。終活と称して本を読み始めたが、果たして残りの人生で読むことができるだろうか。

 

聖句で辿る聖書 103

レビ記
18章 3~5節(聖書協会共同訳)


あなたがたは、住んでいたエジプトの地の風習に倣ってはならない。また私が連れて行くカナンの地の風習に倣ってはならない。その掟に従って歩んではならない。
私の法を行い、私の掟を守り、それに従って歩みなさい。私は主、あなたがたの神である。
私の掟と法を守りなさい。人がそれを行えば、それによって生きる。私は主である。


 風習に倣ってはならない、とある。
 個人の自由になるものは、「変わったやつ」とか「付き合いの悪いやつ」程度ですむかもしれない。ただし高校生ぐらいまでは、一緒でないと仲間はずれにされたり、いじめに遭うかもしれにない。葬儀だと「失礼」と言われ、責められるかもしれない。和を尊び、集団を重んじる日本にあっては、神に従って歩むのは大変である。
 信仰には、程度の差はあれ、神に従うかどうかを問われる信仰の戦いがある。主の祈りの「私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください」(マタイ 6:13)を祈りつつ歩まねばならない。


ハレルヤ

 

ヨハネによる福音書 2:1〜12

2019年3月3日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 2:1〜12(新共同訳)


 きょうの箇所では「最初のしるし」という言葉が出てきます。ヨハネによる福音書では「しるし」という言葉が17回も出てきます。4つある福音書の中で最も多く出てきます。
 では一体きょうの記事は、どんなしるしなのでしょうか。

 最初に「三日目に」とありますが、1:29に「その翌日」とあり、1:35さらに1:43にも「その翌日」と出てきます。この3箇所は1:19~28の翌日の出来事として書かれています。さらにその翌日の三日目の出来事としてきょうの箇所が書かれています。

 ガリラヤのカナという場所で婚礼が行われていました。当時の婚礼は、1週間続く村の一大イベントでした。そこにはイエスも、イエスの弟子たちも、さらにイエスの母もいました。
 おそらく結婚した二人の家はそれほど裕福ではなかったのでしょう。客のために用意したぶどう酒が足りなくなってきました。
 その時イエスの母は、イエスに「ぶどう酒がなくなりました」と告げます。彼女はイエスがこの状況を解決できると期待していたのでしょうか。母の思いは何も書かれていないので分かりません。

 イエスは母の言葉に対してあまりにも素っ気なく答えます。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。
 既にイエスの救い主としての歩みは始まりました。イエスの歩みを導くのは、父なる神の御心です。しかし彼女は、自分の思いを超える父なる神の御心を知っていました。父なる神の御心を受け入れてイエスを生んだ彼女は知っていました。
 そこで彼女は、近くにいた召使いたちに言います。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。

 その家には清めに用いる石の水がめが六つも置いてありました。水がめは2から3メトレテス入りのものでした。わたしたちが日常で使うリットルに換算すると、78〜117ℓぐらいになります。わたしたちが今見かける形のそろった器ではなく、大体このくらいといった感じの不揃いのものだったようです。

 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たしました。
 そしてイエスは言われます。「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」。召し使いたちは言われたとおり運んで行きます。
 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をしました。世話役は、このぶどう酒がどこから来たのか知りませんでした。そこで世話役は花婿を呼んで言います。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」。

 そして聖書はこう記します。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」。

 この話はわたしにとっては不思議です。母はイエスに何を期待したのでしょうか。最初のしるしだと言っていますが、何のしるしなのでしょうか。水がぶどう酒に変わったことが救いに何の関わりがあるのでしょうか。わざわざ福音書に記すほどこの出来事のどこに福音があるのでしょうか。
 説教の準備はいつでも、聖書を読んで感じる疑問の答えを求めて準備します。聖書を通して神が何を語りかけておられるのかを求めて準備します。

 ここでヨハネによる福音書の意図を考えてみましょう。
 福音書は 1:19以下で、洗礼者ヨハネの弟子たちにイエスが救い主であることを伝えようとしてきました。洗礼者ヨハネは、旧約最後の預言者です。ですから、洗礼者ヨハネからイエスへと導かれることは、旧約から新約へと進み行くことです。このヨハネによる福音書の編集者は、この出来事にそのしるしを見たのです。

 イエスは、水をぶどう酒に変えられました。水は清めのための水でした。清めは、旧約を象徴する行為です。その水がぶどう酒に変わったのです。
 新約でぶどう酒と言えば、聖晩餐のぶどう酒です。ぶどう酒はキリストの血を表すものです。キリストの血はわたしたちの罪を贖い、清めます。神の恵みによって新しく生きることの象徴、しるしです。水がぶどう酒に変わったのは、旧約から新約へと変わった、キリストによって救いが成就し、古い契約(旧約)から新しい契約(新約)に変わったしるしです。

 だから福音書の編集者は、この出来事がイエスの最初のしるし、救いの到来・成就のしるしであったと考えたのです。

 さらにこの福音書の特徴は、一つのことに複数の意味を重ねます。
 例えば、1:38でヨハネの弟子たちがイエスに「どこに泊まっておられるのですか」という言葉に「何に根ざしておられるのですか」とか「何につながっておられるのですか」という意味を重ねています。(参照:ヨハネ 1:35~42説教)

 ここでは、結婚式の喜びが増すように水をぶどう酒に変えられました。聖書で結婚は、キリストが花婿で、わたしたちは花嫁と例えられます。この奇跡は、わたしたちがキリストと結ばれ、救いに入れられることを神が喜ばれるしるしです。清めの水がぶどう酒へ変わる。それが旧約から新約へと至るキリストの救いを表すものです。キリストによって罪が贖われ、キリストと結ばれて神の子とされるのです。そして神の国へと招き入れられます。永遠の命が与えられるのです。結婚式の奇跡は、救いを喜ばれる神を象徴する出来事です。

 また、神と共に生きることに欠けが生じてしまうとき、丁度ぶどう酒がなくなってしまうような欠けが生じてしまうとき、それを補ってくださるのはキリストの御業であることを示しています。日常の中で、このままではダメかもと思ったときには、イエスの母のように「足りなくなりそうです、ダメになりそうです」と祈るのです。キリストの御名によって神に祈るのです。すぐに祈りが聞かれないように思えても、清めの水がめを一杯にしたからどうなるのだと思っても、イエスの言葉、神の導きに従うとき、そこに神の栄光が現れてくるのです。
 11節で「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」とあります。聖書において栄光とは、神が救いの神であることが明らかになることです。祈りつつイエスに従う日常の中で、キリストはその栄光を現してくださいます。神があなたの救いの神であってくださることを、あなたが救いの中に入れられることを、神は喜んでおられるということを明らかにしてくださいます。
 そして最後には、神の国で最もよいぶどう酒が用意されているのです。キリストはわたしたちを最もよきものが備えられている神の国へとわたしたちを導いてくださるのです。わたしたちはきょう、聖晩餐に与りますが、聖晩餐は終わりの日の祝宴、神の国の祝宴を指し示すしるしです。

 この福音書は、終わりの方 20:30, 31でこう書いています。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。
 この最初のしるしは、福音書の編集者が、キリストがなした多くのしるしの中から、イエスを信じて命を受けるために知ってほしいと選んだしるしです。このしるしには、受けても受けてもなくならない神の救いの恵みが込められています。
 イエスは言われます。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ 4:14)。
 是非、イエスご自身から溢れてくる命の水、祝福のぶどう酒を飲んで、キリストの喜びに満たされて、恵みの中を歩んでいって頂きたいと願っています。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうかわたしたちの日常においてもしるしを現してください。キリストの命の水、祝福のぶどう酒に与って、あなたの喜びで満たしてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

聖句で辿る聖書 102

レビ記
17章 11節(聖書協会共同訳)


肉なるものの命、それは血にある。私はあなたがたの命の贖いをするために、祭壇でそれをあなたがたに与えた。血が命に代わって贖うのである。


 確かこの箇所が、一般に「ものみの塔」と呼ばれる宗教団体の人たちが輸血を禁止する根拠の一つだと記憶している(参照:レビ 17:10, 14)。
 前にパッカーの『福音的キリスト教と聖書』の感想を書いたときに、「聖書は必ず解釈され、神の御心が聞き取られねばならない」と書いた。問題は、その聖書解釈が適切かどうかである。
 聖書釈義をする際の基本がある。キリスト教の場合、その聖書解釈がキリストと結び付くかどうかが基本の一つである。
 わたしはこの箇所の解釈として、血はキリストの十字架の血を指し示していると理解する。わたしたちの命を贖うため、キリストの血が流された。キリストの血がわたしたちの命に代わって贖うのである。

 ちなみにわたしは、レビ記のこの前後を通して輸血が禁じられているとは考えていない。


ハレルヤ

 

福音的キリスト教と聖書

J.I.パッカー『福音的キリスト教と聖書』(1963年、いのちのことば社、岡田稔 訳)読了。


 一度アップしたのだが、書き直した。
 原題は『" FUNDAMENTALISM " AND THE WORD OF GOD』(1958)。「ファンダメンタリズムと神の言葉」。
 古い本である。翻訳でさえわたしが生まれる前に出版されていた。
 わたしが大学生で、キリスト者学生会(KGK)に加わっていたときに、日本キリスト教会のある牧師から頂いたものである。

 時代状況がそうだったのか、論争的な書き方である。50年以上経ってから読むからなのか、自分の論理に酔って書いている感じがした。

 パッカーは、聖書が無謬であり無誤であることを主張する。
 わたしは、聖書が無謬であり無誤であると主張することに意味を感じない。聖書は必ず解釈され、神の御心が聞き取られねばならないからである。
 例えば奇跡が本当だったかどうか証明する必要をわたしは感じない。それが本当だとしても、そういう奇跡があったというだけであれば、今のわたしたちには関係ない。その奇跡を通して、神が今わたしたちに語りかけておられることを聞かねばならない。
 聖書批評学に対しても同様である。第二パウロ書簡と呼ばれる文書があるが、パウロ自身が書いてなかったとしてそれがわたしたちの救いに何の関係があるのか。それを得々と聖書の文書の順番を変えて「これが最新の聖書理解です」とばかりに出版しているのは滑稽に思える。
 聖書は「神の言(ことば)」である。神が今伝えようとしているメッセージを聞き取り、神と共に生きるのが肝心である。

 もう一つ大切なことは、神は間違いを犯す人間を用いられる、ということである。一体誰が、欠けなく過ちなく説教できるだろうか。神の御心を完全に語れる人など一人もいないのである。それでも神は、不完全な罪人の説教を用いてキリスト者を起こし、救いの御業をなしてこられたのである。
 聖書は神の言(ことば)として、聖書によってキリストに出会い、神を知り、神との交わりに生きることへと導かれることが大切である。聖書が第一なのではなく、神ご自身が第一なのである。アブラハムは聖書を持っていなかった。けれど彼も、神の声を聞き、神を知り、神に従い、過ちも犯したけれども神に用いられ、神を証しして歩んだ。そして彼は「祝福の源」とされたのである。

 聖書は神の言葉であるから、無謬であり無誤であると主張するのは罪人の願望であり思い込みである、とわたしは思う。聖書は、神と共に生きる以外の証しを必要としてはいない。
 「聖書は神の言(ことば)である」、わたしはこれ以上でも以下でもないと思っている。

 次は、藤本満『聖書信仰 −その歴史と可能性−』(2015年、いのちのことば社)を読む。