聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

聖書通読のために 77

マタイによる福音書 9章 14~17節(新共同訳)

 

 時は止まらない。そして時は神の領分である。
 アダムとエバが罪を犯し、人が罪を抱えてから、イエス キリストが来られるまで長い時間がかかった。いつ生まれいつ死ぬのか、いつキリストと出会うのか、それは神がお定めになる。
 今は、新しいぶどう酒を新しい革袋に入れる時である。キリストは既に来られた。聖書を通してキリストと出会うならば、キリストと共にあって喜ぶ時である。


喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

聖句による黙想 34

聖句による黙想
 思い巡らす meditation meditado


ローマの信徒への手紙 7章 22節(新共同訳)

 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。


 たとえ自分の心の内では、神の言葉(律法、戒め)を喜んでいても、自分の意思や願いとは関係なく、わたし自身が抱え持つ罪が働いて、わたしを罪の虜にしている。丁度幼児がだだをこねるように、親に理由を言われても、聞けないのに似ている。


ハレルヤ

 

ルカによる福音書 24:36〜43

2018年9月30日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ルカによる福音書 24:36〜43(口語訳)

 

 イエスが復活された日曜日、クレオパともう一人の弟子が、エルサレムから約11km余り離れたエマオという村に向かって歩いていました。二人は、その日の朝、女性たちが伝えたイエスの墓が空になっていたという話をしていました。
 そこに、二人に追いついてきた一人の人がいました。この人こそ復活したイエス キリストでした。しかし、まだ復活を信じていない二人は、目が遮られていて一緒にいるのがイエスだとは気づくことができませんでした。
 イエスは彼らに話しかけられます。「今、歩きながら話しているのは、何の話ですか」。
 クレオパが事の次第を話して聞かせると、イエスは言われます。「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
 こう言ってイエスは、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされました。

 エマオに到着してもイエスは先に行こうとされます。二人はイエスを引き止めて言います。「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家に入られました。
 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、自分たちと一緒にいるのがイエスであることが分かりました。
 不思議なことに、イエスだと分かると同時に、その姿が見えなくなってしまいました。

 二人はは互に「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」と喜びを確認し合いました。
 そう、聖書を通して神さまの声が聞こえると、心が内に燃えるのです。旧約の詩人は語ります。「わたしの心はわたしのうちに熱し、思いつづけるほどに火が燃えたので、わたしは舌をもって語った」(詩篇 39:4)。そしてパウロも語ります。「わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである」(1コリント 9:16)。だから説教の前にはこう祈ります。「神ご自身がわたしたち一人ひとりの魂に語りかけてくださいますように。」
 神の声が聞こえるとき、死の悲しみも絶望も消え去るのです。ヨブも最後神ご自身が直接語りかけてくださったとき、彼の怒りも憤りも消え去りこう言います。「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、/今はわたしの目であなたを拝見いたします。/それでわたしはみずから恨み、/ちり灰の中で悔います」(ヨブ 42:5, 6)。
 だからルカはイエスのこの言葉を福音書に記しました。「そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。・・天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」(ルカ 11:9, 10, 13)。神に望みを置く皆さん一人ひとりが、神の声を聞くことができますように。

 二人は、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、11人の弟子とその仲間が集まっていて「主は、ほんとうによみがえって、シモン(ペテロ)に現れなさった」と彼らと同じ喜びを語り合っていました。イエスは彼ら二人にだけ現れたのではなく、ペテロにも現れてくださっていました。
 二人も、途中であったことや、パンを裂く様子でイエスだと分かったことなどを話しました。
 こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになり、「やすかれ(平安あれ)」と言われました。
 彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思いました。まさに今「イエスは復活してペテロに現れた」と語り、クレオパから「イエスが現れて、聖書を説き明かしてくださり、パンを割いてくださった」と聞いたばかりなのに、イエスご自身が目の前に現れると、恐れ驚いて、霊を見ているのだと考えるのです。それほど復活は信じられない、現実に起こるとは思えない事柄なのです。

 そこでイエスが言われます。「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。こう言って、手と足とをお見せになりました。
 パウロは復活についてこう言っています。「肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである」(1コリント 15:44)。神が創造されたものは失われないのです。キリストは復活され、わたしたちもキリストと一つにされて復活するのです。魂が不滅なのではなく、肉体が滅んで霊魂が解放されるのでもありません。罪を抱えてしまった肉の体が、キリストの救いに与って霊の体となって復活するのです。神ご自身にかたどって造られたわたしたちは、霊も肉も何一つ欠けることなく復活するのです。

 弟子たちは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われました。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられました。

 ルカは、イエスの復活の証しとしてイエスが食事をすることを記します。ルカが福音書に続いて編纂した使徒行伝でもイエスが食事をしたことが書かれています。「イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった」(使徒 1:3, 4)。このようにイエスが弟子たちと食事をしたとルカは書いています。
 当時、幽霊などの霊的な存在は食事をしないと考えられていたようです。ですからルカは、イエスが食事をされたことを書くことによって、イエスが幽霊のような霊的な存在ではなく、霊と体を兼ね備えた人として復活したことを明らかに伝えようとしたのです。
 そしてもう一つ、イエスが食事をされたことをルカが記したのは、共に食事をするということが好意の表れだからです。
 出エジプトをした際、シナイ山十戒を受け取った後、神はモーセに「あなたは・・イスラエルの七十人の長老たちと共に、主のもとにのぼってきなさい」(出エジプト 24:1)と命じられました。そしてモーセは言われたとおり「イスラエルの七十人の長老たちと共にのぼって」(出エジプト 24:9)行きました。「そして、彼らがイスラエルの神を見ると、・・神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした」(出エジプト 24:10, 11)とあります。人々は、聖なるものを見ると失明するとか命を失うと考えていました。ですから神を直接見るというのは、してはいけないことだと考えられていました。しかし、神と対面したとき、神は彼らを手にかけられなかった(処罰されなかった)ので、彼らは神の御前で食事をしたのです。神がイスラエルと契約を結び、イスラエルが神の民となったことの祝いの食事を神の御前で、神と共にしたのです。
 ルカがイエスの食事を記すのは、イエスの十字架と復活によって救いの業が成し遂げられ、新たな契約が神と民との間に結ばれたことを喜ぶ思いが表されているからであり、そして、その喜びの宴にわたしたちが招かれているからだと思います。福音書から使徒行伝へ。まずイエスが先立ってお食べになり、その食卓にわたしたちが招かれ共に食するのです。神の恵みを受けて、神を喜んで、神と共に食事をするのです。キリストが復活されて、わたしたちはその恵みの座へと招かれ導かれているのです。

 イエス キリストは、信じられない弟子たちの前に現れて、救いが成し遂げられたことを証しし、弟子たちを、そしてわたしたちを、神との交わりを喜び楽しむ救いへと招いていてくださいます。それを忘れることのないようにと与えられているのが聖晩餐です。
 神の救いの契約に入れられて、神の御前で、神と共に食事をする喜びに招かれているのです。今の肉の体がこの世の食事で養われるように、永遠の命を養うイエス キリストの命を与えられているのです。「さあ、これはあなた方のための食事だ、取って食べなさい、この杯から飲みなさい、神の御前で喜び共に食そうではないか」このように神の御前での食事に招かれています。ルカはそのことを福音書の最後で示そうとしたのです。ただ死が打ち破られただけでなく、あなた方は神の御前の喜びの座へと招かれ導かれているのです。イエス キリストはその道を拓いて、わたしたちに先立って進んでくださったのです。
 ですから、わたしたちが招かれているこの礼拝は救いを喜ぶ宴なのです。神はわたしたちに喜びを与え満たしてくださるお方なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちをあなたとの交わりへと招く救いに与らせてくださったことを感謝します。どうかイエス キリストが今わたしたちと共にいてくださることを知ることができますように。どうぞ主にある喜びを増し加え、豊かに分かち合わせてください。この教会に集う者一人ひとりがあなたと出会うことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

聖書通読のために 76

マタイによる福音書 9章 9~13節(新共同訳)

 

 イエスは徴税人や罪人と食事をされる。自らの清さを求める人たちはこれを理解できなかった。これは、神の御心を理解していないからだとイエスは言う。(『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。)
 イエスは言われる。「わたしが来たのは・・罪人を招くためである。」

 


喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)