聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

聖書通読のために 66

マタイによる福音書 7章 21~23節(新共同訳)

 

 神は赦すお方である。それは、罪人が立ち帰り、共に生きるために赦されるのである。
 しかし、罪人は自分に都合よく解釈する。神と共に生きることを願わず、神の御心を知ることを求めずに、神の赦しと恵みだけを求めて「主よ、主よ」と神を呼び求める。
 「御名によって」と言いながら、天の父の御心を行うのではなく、自分のために神を利用する。
 天の国に入れられる者は、神と共に歩み、天の父の御心を行う者である。

 

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

聖句による黙想 21

コロサイの信徒への手紙 3章 10, 14節(新共同訳)


  造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、

      真の知識に達するのです。
  これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。

      愛は、すべてを完成させるきずなです。

 
 罪によって神のかたちに破れが生じているわたしたちは、造り主の姿に倣う新しい人、つまりキリストを身に着けることにより、新たにされていき、真の知識、すなわち神の子とされていく。
 その要にあるのは、愛である。
 神は愛だからです。(1ヨハネ 4:8)

 

ハレルヤ

 

聖句で辿る聖書 74

出エジプト記
20章 2節(新共同訳)

 

わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

 


 十戒の冒頭の部分である。
 神の戒めは、罪の奴隷からの解放である。人間を幸せにする自由への道しるべである。
 「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ 8:32)

 

マルコによる福音書 16:1〜8

2018年4月1日(日)主日礼拝
聖書箇所:マルコによる福音書 16:1~8(口語訳)

 

 きょうは復活節、イースターです。イエス キリストの復活を記念する日です。歴史的には、本来土曜日だった礼拝が、キリストが復活された日曜日にも集会をしている中で、日曜日の礼拝になってきました。ですから、毎週の礼拝もキリストの復活を記念して行われています。けれど復活節は、聖霊降臨節と並んで最も古くから覚えられ祝われてきた祝日です。今年はマルコによる福音書からご一緒に聞いてまいります。

 イエスが十字架に掛けられたのは、金曜日のことでした。金曜日の午後3時にイエスは息を引き取られました(15:37)。当時一日は日没から日没までとされていたので、日没を迎えると金曜日は終わり土曜日、つまり安息日になります。安息日には「何の業をもしてはならない」(出エジプト 20:10)と十戒で命じられていますから、アリマタヤのヨセフという人がピラトにイエスの遺体の引き取りを願い出て(15:43)、墓に埋葬しました(15:46)。イエスに付き従ってきた女性たちがこれを見届けました(15:47)。

 安息日は、今で言う土曜日の日没で終わりました。イエスの埋葬は、安息日になる前に慌ただしく行われたので、亜麻布で包んだだけでした。そこで女性たちは、イエスを丁寧に葬るために安息日が終わるとよい香りのする香料を買い求めました。そして週の初めの日、つまり日曜日の早朝、日の出の頃、墓に向かいました。週の初めの日とは、天地創造のとき、神が「光あれ」と言って創造を始められた日です。
 今、イエスが救いの業を成し遂げられて、新たなる創造の業がなされようとしていますが、女性たちはそれを知りません。彼女たちが思っているのは、自分たちでは動かすことのできない墓の入り口を塞ぐ大きな石を誰が転がしてくれるだろうか、ということでした。しかし、墓まで来て、目を上げて見ると、石は既に転がしてありました。生きているものの世界と死の世界とを隔てる大きな石が取り除かれたのです。今、キリストの復活により、新しい命の道が開かれたのです。

 彼女たちは墓の中に入ります。彼女たちは、イエスの遺体に香料を塗るために来たのですから、墓の中に入ります。すると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚きました。
 この若者は言います。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。」この若者は御使い、天使です。天使によって、イエスの復活が告げられます。彼女たちは死んだ者の世界の中にイエスを探していました。しかし、イエスはもうそこにはおられないのです。イエスは復活して、死んだ者の世界に命の道を開かれました。墓穴を塞ぎ、闇の中に閉じ込めるその大きな石を取り除き、命の光が差す新しい命の道を開かれました。

 天使はさらに語ります。「今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と。」
 イエスは、最後の晩餐の後、ゲツセマネの園に行く途中で「わたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」(14:28)と言われていました。なぜ復活のイエスはガリラヤへ行かれたのでしょうか。それは、イエスの救い主としての活動がガリラヤから始まったからです。そして弟子たちもガリラヤでイエスに召されました。
 イエスが逮捕された場面で、聖書はこう記しています。「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。」(14:50)イエスは弟子たちをガリラヤに招き、新たに十字架と復活の信仰を持って、もう一度信仰の歩みをなさせてくださるのです。自分の信仰に頼るのではなく、イエス キリストの十字架と復活に依り頼んで新しく歩み出させて頂くのです。特にイエスを三度知らないと言ったペテロは、わざわざ名を挙げて伝えなさいと言われています。ペテロの信仰が失われてしまわないように、彼はこの知らせを聞かねばなりませんでした。これは、わたしたちも同じです。礼拝ごとに招かれ、立ち帰って、新たにキリストの十字架と復活に依り頼んで、何度でも信仰を新しく歩み出させて頂くのです。わたしたちの真実な救い主は、いつもわたしたちを招いていてくださいます。

 しかし女性たちは、おののき恐れながら、墓から出て逃げ去りました。そして、人には何も言いませんでした。恐ろしかったからである、と聖書は伝えています。
 復活は信じがたい出来事でした。昔の人は迷信深いから信じられたというのではありません。昔の人も信じられませんでした。自分たちの思いを超える出来事だったので、恐ろしくて、恐れおののきながら逃げ出さずにはいられない出来事でした。自分たちの経験したことを誰にも話せないほど、恐ろしいことでした。
 マルコによる福音書によれば、イエスは事前に三度ご自分の十字架と復活について教えておられます。8:31と9:31、そして10:33, 34です。聞いてはいたけれども、理解できない、受け入れられない、それが復活です。
 慕っている者の心の中に復活したとか、幻を見たというのではありません。イエスを慕う者たちでも信じられない、恐ろしい出来事が起こったのです。人間の理性、人間の力を超える神の御業が起こったのです。

 現代では、元々マルコによる福音書は 16:8 で終わっていたと考えられています。この口語訳聖書でも 8節の後に1行開けて、9節から最後まで〔〕でくくっています。昔は手書きで書き写されて、読まれていったわけですが、書き写す中で、終わり方が不自然だと思った人たちが 9節以下を書き加えたと考えられています。
 確かに 8節で終わると不自然な感じがします。原文の最後の単語は「なぜなら」という意味の単語です。元々は文章が続いていたけれども、紛失してしまったと考えられています。しかし、繰り返し読んでいくと、この不自然な終わり方がマルコによる福音書の編者の意図に適っているように思えてきました。
 女性たちは、人には何も言いませんでした。すぐには言いませんでした。ですが、語り始めます。こうして福音書が記され、イエス キリストが今に伝えられているのがその証しです。女性たちは語り出すまで、何度も何度も墓での出来事、イエスが教えられたこと、なされたことを思い返したことでしょう。そして、自分たちの理解を超えるイエス キリストへの信仰に導かれていったのです。

 マルコによる福音書は、この終わり方で、天使が弟子たちをガリラヤへ招いたように、わたしたちを福音書の最初に招いているように思います。女性たちが何度も自分たちの体験を思い返したように、そして信仰へと導かれ語り出したように、福音書を読んだ人たちが、もう一度最初に戻って読み直し、何度でもイエス キリストを思い巡らして、信仰に導かれることを願って、このような終わり方をしたのではないかと思えるようになりました。

 聖書は、イエス キリストが十字架で死んで、三日目に復活したと言っている、というような情報としての知識であれば、1回読めば、いや読まなくても誰かから「そうらしいよ」という話を聞けば十分です。しかし、わたしたち罪人は、神の御業を信じられないのです。キリストの復活を既に信じているようであっても、実は信じられないのです。自らの死を前にしても、主の復活によって命の道が開かれている、と信じられるようになるには、聖書の御言葉を何度も何度も思い巡らし、イエス キリストご自身に繰り返し出会って、信仰へと招かれ導かれることが必要なのです。
 マルコによる福音書は、イエス キリストへの招きの書です。冒頭に書かれているように「神の子イエス キリストの福音のはじめ」です。イエス キリストによってよき知らせが始まり、今に至っています。救い主イエス キリストに出会って、キリストの救い、その十字架と復活を信じられるようにと、キリストへと招き続ける神の言葉なのです。
 この福音書を通して、イエス キリストに出会い、信仰に導かれ、共に救いに与っていくことができますように。

 

ハレルヤ

聖書通読のために 65

マタイによる福音書 7章 15~20節(新共同訳)

 

 偽預言者は、一見すると預言者のように見えるけれども、実は全く預言者ではない者を言う。
 預言者の標記どおり、預言者は神の言葉を預かり伝えてくれる者。その言葉に従うと、神に立ち帰り、神と共に歩むことができる。
 偽預言者は、もっともなことを語るが、その言葉に従っても神の許に帰ることはできない。
 偽預言者は、人を自分に従わせることと、自分の罪(自分が神に従っていないこと)を隠すために語る。一見すると、優しかったり、真面目だったり、いい人である。けれども、その言葉に従っても神に立ち帰ることはないし、神と共に歩むこともない。
 偽預言者かどうか判断するには、実を見なくてはならない。自分を主とするのではなく、神を主としているかどうか。自分の善悪によるのではなく、神の言葉に従っているか。自分を正当化するのではなく、自ら悔い改めて神に立ち帰っているか。実を見て見分けるのである。

 

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)