聖句による黙想 18
ヨハネの手紙一 4章 8節(新共同訳)
神は愛だからです。
ヨハネの手紙一 4章 16節(新共同訳)
神は愛です。
創世記 1:27 にはこうある。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」
ヨハネの手紙一 4章を読んだとき、神のかたちとは「愛」だと思った。
創世記 1:27 は、すべての人に当てはまる聖句だと思っている。キリスト者だけでなく、神が創造主ならば神が造ったすべての人に当てはまる聖句だと思っている。そして、すべての人に共通する神のかたちとは、「愛」だと思った。
だから人は、神を信じているいないに関わらず、愛すること愛されることを求めて止まない。罪ゆえにその愛が歪んでいても、すべての人が愛すること愛されることを必要としている。
「罪によって創造のときの神のかたちは完全に壊れている」と主張する人もいるが、わたしはその意見に賛同しない。
人は愛を求めている。しかし、罪ゆえに(正しく、あるいは神のように)愛せないし、満たされない。人は神に出会い、神の愛を受けなければ、この渇きは満たされない。必要なはずの愛に傷つき苦しんでいる。
なぜなら、人は、愛である神にかたどって造られているからである。
ハレルヤ
ルカによる福音書 22:47〜53
2018年1月7日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 22:47~53(口語訳)
イエスは、弟子たちとの最後の晩餐を終え、オリブ山のいつもの場所に祈るために来られました。イエスは十字架を前にして、苦しみもだえて、切に祈られました。汗が血の滴りのようにポタポタと地に落ちるほど切に祈られました。イエスは弟子たちに共に祈るようにお求めになりましたが、弟子たちはイエスと思いを共にして祈ることはできず、悲しみの果てに眠ってしまいました。
そこへイエスを捕らえるために一団の人々がやって来ました。おそらくイエスを逮捕するために派遣された者たちと、イエスが逮捕されるというので集まった人たちがいたのでしょう。そしてその先頭にいたのは、十二弟子の一人ユダでした。彼はイエスに接吻しようとして近づいてきました。
そこでイエスは言われます。「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか。」
かつてエデンの園で、アダムとエバが罪を犯したとき、彼らは神の顔を避けて、木の間に身を隠しました(創世記 3:8)。罪人は、神から隠れることができる、神に自分の罪を知られずにいることができると考えます。イエスは自分を裏切るユダに対して「わたしはあなたを知っている」と示されたのです。ユダは気づくべきでした。イエスは自分のことを知っておられた、それでもイエスは自分を弟子にして側に置いてくださった、主はわたしを招いていてくださることを気づくべきでした。しかし残念ながら、ユダは気づけませんでした。
「イエスのそばにいた人たちは、事のなりゆきを見て、『主よ、つるぎで切りつけてやりましょうか』と言って、そのうちのひとりが、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落し」ました。ヨハネによる福音書は、切りつけたのはペテロであり、耳を切り落とされたのは大祭司の僕マルコスであったと記しています(ヨハネ 18:10)。
38節を説教したときに申し上げましたが、ルカが剣と言っている言葉は「過越の子羊を屠り解体するための小刀」であるという理解があります。この場面でも、ペテロは漁師であって、剣の扱いに慣れた兵士ではありません。剣を振り回してたまたま耳だけを切り落としたと言うよりも、小羊の解体などで使い慣れている小刀で切りつけたという方が、合点がいきます。
イエスは弟子のこの行為に対して「それだけでやめなさい」と言われ、その僕の耳に手を触れて、おいやしになられました。
それから、自分にむかって来る祭司長、宮守がしら(神殿の守衛長)、長老たちに対して言われます。「あなたがたは、強盗にむかうように剣や棒を持って出てきたのか。毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった。だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である。」
罪に支配されているとき、人は自分が何をしているのか、それがどうなるのか理解することができなくなります。丁度暗闇の中にいるように、自分でも見えないし、周りからも見えないと思ってしまいます。
しかし、イエスの言葉は、彼らがみんなの前で堂々とすることのできないことを、今闇に紛れてしていることを指摘します。
ルカがこの場面で示そうとしていることは、イエスの前に立ち、イエスの言葉を聞くとき、人が今何をしようとしているのか、どんな状態にあるのかが明らかになるということです。
人が自分の顔を見るためには、鏡に映さないと見えないように、自分自身を知るためには、キリストの前に立って、神の言葉を聞かなくてはなりません。
イエスは、自分を裏切ったユダに対しても語りかけられます。自分を逮捕し殺そうとしている祭司長、長老、宮守がしら(神殿の守衛長)に対しても語りかけられます。イエスの言葉は、悔い改めへの招き、救いへの招きです。今の自分自身がどんな状態なのかを示し、何に導かれ、どこへと向かっているのかを示します。そして自分を滅ぼす道を行くのではなく、悔い改めて神へと立ち帰り、救いに与るようにと導く、招きの言葉なのです。
ルカはただ起こった出来事を記しているのではありません。イエス キリストこそ救い主であることを告げようとしています。裏切る者・殺そうとする者にも語りかけ、救いへと導こうとされるイエス キリストによって、今もわたしたち一人ひとりに救いが差し出され、救いへと招かれていることを告げようとしているのです。
教会の内でも外でも、二千年にわたって、ユダがなぜ裏切ったのかが問われ続けています。しかし不思議なほどに、聖書はユダの裏切りの理由についてほとんど語りません。この場面でも、ルカが記すのは、イエスは自分を裏切った者、自分を殺そうとする者にも語りかけ、救いへと招かれる、そしてその者たちのためにもイエスは十字架を負われたということです。
おそらくわたしたちの多くも、なぜユダは裏切ったのかということに関心を抱いているでしょう。けれども、聖書はそこを指し示すのではなく、イエス キリストが裏切った者、殺そうとして捕らえに来た者にも語りかけ救いへと招かれたということを語ります。
わたしたちも罪の世で歩む中で、自分の弱さや愚かさ、罪深さに失望することがあるでしょう。けれども、イエスはそのあなたを知っておられます。そしてイエスが「わたしに従ってきなさい」と招かれたのです。あなたは自分に、この世界に失望しているかもしれない。しかし今このときでさえ、イエスはあなたに語りかけられ、招かれておられる。イエスはあなたのことを見捨てることもないし、見放すこともない。この方があなたの救い主なのだ、と聖書は告げているのです。ですからわたしたちもこの場面を読むときに、なぜユダが裏切ったのか、ということに囚われてしまうのではなく、聖書が指し示しているイエス キリストにこそ目を向けていかなければなりません。そしてイエス キリストに出会い、その言葉が自分に向けて語られた言葉なのだと聞くとき、わたしたちは今この所からキリストに導かれて、救いへと招き入れられるのです。
聖書は告げます。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ 5:8)
神は今も、イエス キリストを通してわたしたち一人ひとりを救いへと招き続けていてくださるのです。
ハレルヤ
聖句による黙想 17
創世記 1章 26〜28節(新共同訳)
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
神は人をご自分にかたどって創造された。そして人に祝福を与え、地を治める務めを託された。
26節の「我々」についてはいくつか説がある。わたしは、熟慮を表す複数であり、三位一体の神を示すものと理解している。(参照:蓮見和男『対話する神 −三位一体論』新教出版社、105〜106ページ、林嗣夫『青少年のための聖書の学び 創世記』日本キリスト教会教育委員会、29ページ)
ハレルヤ