聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

聖書通読のために 55

マタイによる福音書 6:19~21(新共同訳)

 

 心が何を意識しているか。この意識によって行動が導かれ、ときに心が囚われてしまう。
 イエスは「天(神の御前)に富を積むようにせよ」と教えられた。「富のある所にあなたの心もある」からだと言われる。
 人は他者に自分を理解してもらいたいし、認めてもらいたい。だから心は他者の目、他者の評価を意識してしまう。そして他者の理解・評価を喜び、それを自分の富としてしまう。
 イエスは、自分が神の御前にあること、神が見ておられることを意識し、神が自分を知っていてくださること、自分を愛していてくださることを知るように促している。神が知っていてくださること、神が愛していてくださることは、誰も奪うことができないし、変わることもない。わたしたちが安心して信じることのできる神の真実である。

 

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

聖句で辿る聖書 53

出エジプト記
5章 22~6章 1節(新共同訳)

 

「わが主よ。・・わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。
・・あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません。」
主はモーセに言われた。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。」

 


多くの牧師たちがこの言葉を神につぶやいたのではないかと思う。わたしも今つぶやいている。
神はわたしにも教会にも、出エジプトの信仰を求められているように思っている。

 

聖句による黙想 9

聖句による黙想
 思い巡らす meditation meditado

 

ヨハネによる福音書 4章 23節(新共同訳)

しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。

 

 なぜわたしたちは礼拝するのか。それは神が礼拝する者を求めておられるからである。
 礼拝は、同好の士が集まって行う(サークル)活動ではない。教会は、キリストに出会い、神に立ち帰り、神に従い生きる神の民である。礼拝は、神が礼拝することを求めておられるからするのである。

ハレルヤ

 

聖書通読のために 54

マタイによる福音書 6:16~18(新共同訳)

 

 人は、自分を理解してほしいし、自分を認めてもらいたい。信仰の場合も同じである。信仰熱心であっても、そうでなくても同じである。自分の信仰を理解してもらいたいし、認めてもらいたい。
 この箇所では、信仰によってわたしは断食しているのだ、ということをみんなに分かってほしいという例である。しかし、それは違う、とイエスは言われる。
 信仰は神が対象であり、神へと向かうものである。信仰を見ているのは、神ご自身である。だからイエスは言われる。「あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
 参照:マタイ 6:1~4

 

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

聖句で辿る聖書 52

出エジプト記
4章 29~31節(新共同訳)

モーセはアロンを伴って出かけ、イスラエルの人々の長老を全員集めた。アロンは主がモーセに語られた言葉をことごとく語り、民の面前でしるしを行ったので、民は信じた。


神の言葉としるしをもって、神は民を信仰へと導かれた。
今も、聖書朗読と説教(神の言葉)と、洗礼と聖晩餐という2つの聖礼典(しるし)によって、神は民を信仰へと導かれる。