聖書の言葉を聴きながら

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聖句で辿る聖書 51

出エジプト記
4章 21節(新共同訳)

主はモーセに言われた。「エジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう。」


神は、民をエジプトから導き出そうとしているのに、なぜファラオの心を頑なにされるのだろうか。
その理由も、信仰の訓練のためとかいくつか考えられるだろう。しかし聖書も、その理由を記さない。理解し尽くせない神の御心に対するわきまえがあったのだろうか。
いずれにしても、こうしようという神の御心があっても、何の問題もなくすんなり進められるのではないということは分かる。

 

ルカによる福音書 22:14〜18

2017年7月30日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 22:14〜18(口語訳)

 

 最後の晩餐と言われる出来事です。
 13節の終わりに「過越の食事の用意をした」とあります。過越祭の最も中心となる行事が「過越の食事」です。
 過越祭とは、出エジプト記に出てくる神の過越を記念する祭りです。エジプトで奴隷であったイスラエルの民を救い出すため、神はエジプトのすべての人と家畜の初子を打たれましたが、イスラエルの家は過ぎ越されたことを記念する祭りです。
 過越の食事は、ニサンの月(現在の3〜4月)の14日の夕暮れ、ユダヤでは日没から新しい一日が始まると考えていたので、15日に変わってから夜明けまでに食べるものでした。
 ユダヤ教の記録によると、過越の食事の流れは次のとおりです。家族の長が食事の始まりに祈ります。その後、ぶどう酒の杯が回されます。詩篇113と114を歌います。次に苦菜を食べて、二度目の杯が回されます。一人が過越の意味について質問します。食卓の主が聖書によってエジプト脱出について手短に説き明かします。これに続いて、過越の子羊と種なしのパンを食べます。食事は、讃美と感謝の祈りで閉じられます。その後、3度目の杯が回されます。最後に詩篇115から118までが歌われます。そして4度目の杯が回され、過越の祝いは終了となります。(ミュルデル『ルカによる福音書II』教文館、p254)
 最後の晩餐が、ユダヤ教の記録どおりのものであったかは分かりませんが、ルカによる福音書は、4回杯を回した過越の食事から、2度の杯の場面を記述したのでしょう。

 イエスが食卓に着かれ、使徒たちも共に席に着いて、過越の食事が始まります。
 イエスは使徒たちに言われます。「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない。」

 苦しみとは、十字架のことです。ですから、死に至る苦しみです。そして、他者の罪を負う苦しみです。理解されず、あざけられ、誰もついて来ることはできない。他者の罪を負って、ただ一人神の前に立たなければならない。絶対的な孤独の苦しみです。さらに、その自分が捨てられる苦しみです。イエスは十字架の上で「「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ 15:34)と叫ばれました。
 イエスは「自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」(9:23, 14:27)と言われましたが、わたしたちは十字架という言葉の意味をよく考える必要があります。イエスの十字架を前にして、十字架の意味を思い巡らし、イエスがわたしたちに「自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」と言われたその意味をよく考える必要があります。

 イエスは十字架の前に使徒たちと過越の食事をしようと、切に望んでおられました。それは、過越の食事が指し示してきたものがキリストの十字架であったからです。出エジプトが紀元前1200年頃の出来事と考えられています。つまり1200年もの間指し示してきた出来事が、今起ころうとしている。それを理解し、受け止めさせるための最後の晩餐だったのです。それをイエスは切に望んでおられたのです。使徒たちがこの最後の晩餐の意味を知るのは、聖霊を受けた後のことです。使徒たちは、自分たちが救いを理解し、救いに与り、そしてさらに多くの者たちが救いに入れられることを、イエスがどれほど願い望んでおられたかを、十字架・復活を経て、聖霊を受けた後に知ったのです。

 そしてイエスは言われます。「あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない。」これは未来の約束です。過越の食事は、神が救いの業をなしてくださったことを記念し、喜び祝う食事です。この次は救いの御業が完成したとき、神の国で神の御業を共に喜ぶときだと、イエスは約束してくださったのです。
 先ほど紹介しましたように過越の食事では杯が4回回されます。17節はその何回目か分かりませんが、その際に「「これを取って、互に分けて飲め。あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」と言われたのも、使徒たちが約束を忘れないように念押しして言ってくださったのです。

 使徒たちは、これから願わぬ出来事に直面させられます。使徒たちに、イエスの死を願う者はいません。イエスの十字架を願っている者はいないのです。それがこれから起こってくるのです。自分たちの願いや期待とは違う神の御心、神の計画を突きつけられます。それが十字架です。そして、神の御心によってこそ救いの御業はなされることを突きつけられるのです。

 今も聖晩餐は、救いが神から来ることを示し証しし続けています。イエスの制定の言葉を聞き、イエスの十字架の御業によってわたしたち一人ひとりの前に救いの恵みが差し出されるのです。イエス キリストが世に来られたのも、十字架にかかられたのも、わたしたちの願いでも計画でもありません。救いは神ご自身にあるのです。神こそがわたしたちの救いなのです。

 そして、その神に出会い、救いに与ることができるために、教会はあるのです。これこそが決して忘れてはならない教会の使命です。もし教会がこのことを第2第3のこととしたり、何か他のことでこれを薄めてしまったり、ぼんやりさせてしまうとするなら、そこはもはやキリストの教会ではありません。神はわたしたちの救いの源、救いそのものであり、わたしたちの救いも命も神にかかっているのです。イエス キリストが文字通り命をかけて成し遂げてくださった御業が、教会に委ねられているのです。

 わたしたちも、わたしたちのために命をかけてくださったイエス キリストを、指し示し、証しし、宣べ伝えていきます。教会へと導かれてきた一人ひとりが、このキリストに出会い、神を知り、救いに与ることができるように、未来が老いて死んで終わるのではなく、キリストがご自分の命を「さぁ、あなたのためのわたしの命だ」と言って差し出してくださるのを受けることができるように、神が備えていてくださる新たな命に満たされ祝福されて、神と共に歩んでいけるように、教会は託された務めを果たし続けていくのです。わたしたちの教会もまた、代々の教会と共に、日本キリスト教会の諸教会と共に、救いのための務めを担い続け、神から「忠実なよい僕よ」と言って喜ばれ、恵みにさらに恵みを加えられるそのようなキリストの教会であり続けたいと心から願います。

ハレルヤ

 

聖書通読のために 53

マタイによる福音書 6:14, 15(新共同訳)

 

 人は神にかたどられて造られた(創世記 1:26, 27)。神は人にご自分に倣うことを求められる。神は赦すお方である。神は人間の罪に対して、悔い改め赦される道を示された。旧約の祭儀はそれを指し示している。自分自身が神に赦され、自分もまた赦す者とされていくのである。
 罪は無条件に赦されるのではない。悔い改めが求められる。罪の贖いが必要であることが示される。神はひとり子を世に遣わし、その命をもって罪を贖われた。人は神の御前で罪を認め、キリストを信じて、神へと悔い改めるのである。悔い改め、神に従って歩み始めるとき、人は神に倣うようにと導かれる。
 神に倣って赦すとき、人は神に従おうとしていることを示される。そのとき、人は今自分も神の赦しに与っていることに気づかされるのである。

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

聖句による黙想 7

聖句による黙想
 思い巡らす meditation meditado

 

詩編 22篇 5, 6節(新共同訳)

わたしたちの先祖はあなたに依り頼み
依り頼んで、救われて来た。
助けを求めてあなたに叫び、救い出され
あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。


 キリスト教の歴史の中には、数多くの殉教者がいる。昨年公開された『沈黙』(原作:遠藤周作)でも、苦難のときの神の沈黙をテーマとしていた。救われて生き残った者だから、このように告白できるのだろうか。
 わたしはおそらくこの御言葉を語って「あなたは恵まれているからそんなことを言えるのだ。それなら今救ってくれ」と言われるのを恐れている。答えることのできない言葉を突きつけられるのを恐れている。
 しかし、この御言葉も二千数百年語られてきた。戦争で命を奪われるときも、疫病で命を失うときも、よい時だけでなく、苦難の時にも語られてきた。わたしの不信仰による不安を超えて、この言葉をご自身の言葉とされた神自ら、わたしたちの命に責任を負ってくださる。そして神は、ひとり子を救い主として世に遣わされた。

ハレルヤ

 

聖句で辿る聖書 50

出エジプト記
4章 14~16節(新共同訳)

 

あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。・・
彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。
彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。


モーセは、神がお立てになった優れた指導者である。しかし、彼には助け手が必要だった。そして、その助け手も神が備えてくださる。