聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ルカによる福音書 22:7〜13

2017年7月16日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 22:7〜13(口語訳)

 

 ルカによる福音書も、最後の晩餐の場面へとやってきました。
 「過越の小羊をほふるべき除酵祭の日がきた」と福音書は語ります。1節でも「過越といわれている除酵祭が近づいた」と言っています。本来、過越祭と除酵祭とは区別される祭りですが、一続きで守られる祭りなので、このように言われるようになりました。
 過越祭とは、出エジプト記に出てくる神の過越を記念する祭りです。エジプトで奴隷であったイスラエルの民を救い出すため、神はエジプトの人も家畜もすべての初子を打たれましたが、イスラエルの家は過ぎ越されたことを記念する祭りです。過越は、神が救いの神であることを証しする出来事で、イスラエルにとっては最も重要な出来事です。
 除酵祭とは、過越祭に続く七日間をパン種、つまりパンを膨らませる酵母を入れないパンを食べる祭りです。酵母を入れないパンは、急ぎの時に食べるもので、エジプトを脱出する際に、神から酵母を入れないパンを食べるように命じられたことを記念して行われます。
 この一連のことは、出エジプト 12:1〜17に書かれています。「その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である(12節)。この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない(14節)。あなたがたは、種入れぬパンの祭を守らなければならない。ちょうど、この日、わたしがあなたがたの軍勢をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、あなたがたは代々、永久の定めとして、その日を守らなければならない(17節)。」

 このイスラエルの民にとってとても大切な、過越の食事のためにイエスはペテロとヨハネとを使いに出します。「行って、過越の食事ができるように準備をしなさい」。彼らは尋ねます、「どこに準備をしたらよいのですか」。イエスは言われた、「市内にはいったら、水がめを持っている男に出会うであろう。その人がはいる家までついて行って、その家の主人に言いなさい、『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。すると、その主人は席の整えられた二階の広間を見せてくれるから、そこに用意をしなさい」。二人は行ってみると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をしました。

 イエスは、この過越の食事の準備を密かに進めておられました。なぜなら、ユダは、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、機会をねらっていたからです(6節)。過越の食事は、みんな家族で守るもので、イエスの周りに群衆などいない絶好の機会です。しかしイエスは、十字架の前のこの過越の食事は、弟子たちと守るために準備をしておられました。なぜなら、この過越の食事こそイエスの十字架の意味を表すものだったからです。

 弟子たちは、イエスがご自分の死について語られてもそれを理解できませんでした(9:22, 9:43, 18:31)。理解したくない内容だったと思います。
 この後、イエスはユダの裏切りによって、逮捕され、十字架につけられます。しかしそれは、運悪くそうなったのでも、力及ばずそうなったのでもありません。初めからイエスは十字架を負うためにこの世に来られたのです。過越の食事のために屠られる小羊は、イエス キリストを指し示していたのです。神の裁きが、罪人たちを過ぎ越していくために、イエス キリストがわたしたちの罪を負って、わたしたちの救いのために、わたしたちに代わって十字架で裁かれたのです。神が遣わされた救い主イエス キリストは、わたしたちにご自分の命を与えるために、来られたのです。

 これはイエスが弟子たちと守る最後の晩餐です。しかし、この最後の晩餐から教会の聖晩餐は始まりました。その意味では、これは最初の晩餐でもあります。
 聖晩餐を守るたびに、わたしたちは主の十字架を思い起こします。旧約の神の言葉が、イエス キリストにおいて成就したことを思います。神の言葉は真実であったことを思います。そして聖晩餐は、今に至るまで2,000年教会で守られてきました。今この時も、わたしたちはイエス キリストの十字架の恵みの中に置かれています。さらに聖晩餐は、わたしたちが未来において代々の聖徒たちと共に神の国で主の食卓に与ることを指し示しているのです。
 聖晩餐は、わたしたち人類の過去も現在も未来も、神の救いの御業の中に置かれていることを示し続けています。時代が変わり、社会が変わり、生活が変わり、人々の考え方が変わっても、神の御心も御業も真実で変わらないことを聖晩餐は証しし続けています。
 最後の晩餐が、イエスご自身によって弟子たちも知らぬ間に用意されたように、わたしたちが求めもせず、用意もしていなかった救いの御業を、神ご自身が用意し、備えていてくださったのです。自らの命を献げるために来られたイエスが、弟子たちと最後の晩餐を守るために準備し用意されたように、わたしたちが聖晩餐に与り、救いに入れられるように、今も主はわたしたちのために御業をなしていてくださいます。何が変わろうと、「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル 13:8)わたしたちの真実な救い主であります。

ハレルヤ

 

ルカによる福音書 22:1〜6

2017年7月2日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 22:1〜6(口語訳)

 

 場面は、いよいよイエスの十字架へと進んでまいります。
 1節に「過越といわれている除酵祭が近づいた」とあります。
 過越というのは、出エジプト記に出てくる神の過越を記念する祭りです。エジプトで奴隷であったイスラエルの民を救い出すために、神はエジプトの人も家畜もすべての初子を打たれましたが、イスラエルの家は過ぎ越されたことを記念する祭りです。過越は、神が救いの神であることを証しする出来事で、イスラエルにとっては最も重要な出来事です。
 除酵祭というのは、過越の祭に続く七日間をパン種、つまりパンを膨らませる酵母を入れないパンを食べる祭りです。酵母を入れないパンは、急ぎの時に食べるもので、エジプトを脱出する際に、神から酵母を入れないパンを食べるように命じられたことを記念して行われます。
 過越の祭と除酵祭とは、切り離すことのできない一続きの祭りでしたので、1節にあるように「過越といわれている除酵祭」と言われるようになったのだと思います。この祭りはニサンの月に行われました。ニサンの月というのは、現在の暦では3〜4月の時期になります。
 2節に「祭司長たちや律法学者たちは、どうかしてイエスを殺そうと計っていた。民衆を恐れていたからである」とあります。祭司長たちや律法学者たちは、民衆が自分たちを離れ、イエスを尊敬し、イエスに従うのを恐れていました。だから、どうかしてイエスを殺そうと考えていたのです。
 彼らは、民衆を恐れていました。神に仕える祭司長たち、神の言葉に仕える律法学者たち、その彼らが神を恐れるのではなく、民衆を恐れていたのです。自分たちの誇り、自尊心のために、神ではなく、民衆を恐れた。神以外のものに心が向いていってしまうとき、神を信じていながら、神の御業を拒絶する者となってしまいました。
 そんな時、十二弟子の一人で、イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンが入りました。彼は祭司長たちや宮守がしらたちのところへ行って、どうやってイエスを彼らに渡そうかと、その方法について話し合いました。祭司長たちや宮守がしらたちは喜んで、ユダに金を与える取決めをしました。マタイによる福音書によれば、それは銀貨30枚だった、と言われています(マタイ 26:15)。ユダはそれを承諾しました。そして、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、機会をねらっていたのです。

 なぜ、イスカリオテのユダはイエスを裏切ったのでしょうか。2,000年の間、多くの人々が、考えてきました。近年注目を集めた『ユダの福音書』も、そうした疑問から生まれた作品の一つと言えるでしょう。皆さんは、なぜユダはイエスを裏切ったのだと思いますか。
 ルカは、その理由をはっきりとこう書いています。「ユダに、サタンがはいった」
 サタンは、元々「敵対する者、妨げる者」という意味の言葉です。神に敵対し、イエスに従うことを妨げるサタンが、ユダに入ったのです。
 ある人は「悪魔がわたしたちが想像する姿をしていたならば、恐れるに足りない。悪魔が来たことがはっきりと分かる。しかし、悪魔は善意を装ってやってくる」と言っています。イエスが荒れ野で誘惑を受けられたときも、悪魔はいい方法があると勧めます。しかも聖書の言葉まで使って勧めます。悪魔の誘惑を受ける時、人はこうした方がもっといいんじゃないか、と良い選択をしているつもりで、誘惑されるのです。もしかしたら、裏切りにはユダなりの考えがあったのかもしれません。
 あるいは、日本的な言い方をすれば「魔が差した」ということでしょう。この場合、何故あんなことをしたのか自分でもよく分からない、ということかもしれません。
 なぜユダはイエスを裏切ったのか。理由は、聖書が言うとおり「ユダにサタンが入った」のです。神に敵対し、イエスに従うことを妨げるサタンが、ユダに入ったのです。
 そして、わたしたちにもサタンが入ることはしばしばあるのだろうと思います。自分自身のことを考えても、いつも神の御心と御業を愛し、イエスに従う模範的なキリスト者だとはとうてい思えません。わたしたちは罪を抱えており、絶えずサタンの誘惑にさらされています。

 ならば、どうしたらサタンを退け、神に立ち帰り、イエスに従っていけるのでしょうか。答えは簡単です。サタンの誘惑を退けたイエスをよく知ることです。そして自分をイエスよりも賢く思わないことです。「イエスはこう言われた、こうされた。でも、こうした方がもっとよかったんじゃないの。こうすれば大丈夫じゃないの」と自分の方が賢いと思わないことです。いろんな理由をつけて、イエスに従わなくても、うまくやれると考えないことです。イエスに従わなくてもいい理由を見つけて、大丈夫、かまわないと思わないことです。

 イエスはわたしたちが生きるための、一つの参考資料ではありません。わたしたちのただ一人の救い主であり、道であり、真理であり、命であるお方です。この方によってだけ、わたしたちは罪から救われ、死から救い出されるのです。聖書も、祈りも、礼拝も、このイエスと出会い、イエスを知り、イエスと共に生きるためにあるのです。イエスと共に生きるところにこそ、命の道があるのです。だから教会は、礼拝を、祈りを、讃美を大事にしてきたのです。イエスと出会い、神と共に生きるために与えられた恵みだからです。わたしたちが救いに与るためには、真実な救い主イエス キリストへと思いを向けていくのです。
 神はわたしたちに御子イエス キリストをお与えくださいました。神は、わたしたちが救われてご自身と共に生きることを願っておられます。

ハレルヤ

 

エペソ人への手紙 3:16〜19

2017年6月25日(日)主日礼拝  休暇のため説教原稿を長老が代読

聖書箇所:エペソ人への手紙 3:16〜19(口語訳)

 

「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」(エペソ人への手紙 3章16-19節)

 

 イエス キリストは、復活の後40日にわたって使徒たちに神の国について話されました(使徒行伝 1章3節)。そして、使徒たちの見ている前で天に上げられました(使徒行伝 1章9節)。これをキリストの昇天と言います。
 なぜイエスは天に上げられたのでしょうか。イエスがキリスト(救い主)であることを人々に知らせるには、復活したイエスがその姿を現し、イエスを憎む者の陰謀も死の力もイエスを滅ぼすことはできないということを明らかにするのが一番ではないでしょうか。
 しかし、それは愚かな考えであることに気づかされました。この世に人としているということは、時間と空間の限定を受けるということです。簡単に言うと、例えばわたしがある時間に新宮にいるということは、同じ時間に大阪にはいないということです。ある日曜日に新宮教会で礼拝しているということは、他の教会にわたしはいないということです。イエスが人としてこの世におられるとき、ある所である人たちと一緒にいるということは、別の場所にいる別の人たちとは一緒にいられないということなのです。しかし、イエスはすべての弟子たちといつも共にいることを願い、約束されたのです。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイによる福音書 28章20節)
 そのためにイエスは、人としては天に昇られ、聖霊によってわたしたちと常に共にいるようにされたのです。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。・・あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」(ヨハネによる福音書14章16−18節)これによって、イエスは時間と空間の制約を受けることなく聖霊において世界中のすべての弟子と共におられるのです。だからイエスはこうも言っておられます。「わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。」(ヨハネによる福音書 16章7節)イエスは、すべての弟子たちといつも共にいるために天に昇られたのです。
 そして天に昇られたイエスは、神の国にあって今もなおわたしたちのために神に執り成しをし続けていてくださいます。「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ人への手紙 8章34節)
 この今もなされているイエスの執り成しによって、わたしたちは神の国に住まいを得ているのです。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネによる福音書 14章2−3節)
 わたしたちの命は、神の祝福によって造られ、キリストの救いの業によって神の国へと導かれるのです。わたしたちはどこから来て、どこへ行くのか。わたしたちは神のもとから来て、神のもとへ帰るのです。わたしたちは行く宛てのない人生を生きているのではなく、帰るべき家へと、わたしたちを愛し続けていてくださる方のもとへと続く人生を生きているのです。
 
 イエス キリストの昇天は、ただこの世を離れて神の国に戻られたというのではなく、天に上げられるということを通して、常にわたしたちと共に生き、わたしたちを神の国へと導く救いの御業なのです。
 
 さて、聖霊なる神は、わたしたちを救い主イエス キリストに結び合わせ、キリストの命、キリストのすべてでわたしたちを満たすために遣わされました。聖霊なる神によってイエス キリストと一つにされたわたしたちは、もはや何ものによっても支配されることはありません。イエス キリストで満たされている今は、死もわたしたちを支配することはできなくなったのです。「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ人への手紙 8章38, 39節)
 
 また聖霊は、イエス キリストからわたしたちへという方向で恵みを与えるだけでなく、わたしたちからイエス キリストへ、そして父なる神へと結び付けてくださいます。
「御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」(ローマ人への手紙 8章26節)
 わたしたちの弱さを知って、聖霊なる神ご自身がわたしたちのために執り成してくださるのです。聖霊なる神によって、神の愛がわたしたちへと注がれ、わたしたちの祈りにならない思いが神へと執り成されているのです。
 
 例えて言うなら、聖霊なる神は命を支える息のようなお方です。息をしているとき、わたしたちは生きています。そして息をしているとき、目に見える肉体と目に見えない心とが一つに結び合わされて、わたしという一つの存在、一つの命として生きています。聖霊なる神が働かれるとき、目に見えるわたしたちと目で見ることのできないイエス キリストが一つに結び合わされて、わたしたちはキリストの復活の命に生きる新しい存在とされているのです。
 実は、旧約が書かれたヘブライ語で「霊」を表す言葉(ルーアッハ)は、「息」も表す言葉なのです。
 
 キリスト教の中心は「神と共に生きる命」です。神と共に生きるとき、命は滅びへ向かうことなく生きることができ、喜びをもって生きることができます。神と共に生きるとき、すべての命が神の愛の中で共に生きることができます。
 けれど、罪がわたしたちをこの恵みから引き離してしまいました。しかし、父なる神は罪を抱えてしまったわたしたちの救いを決意されたのです。そして、子なる神(父の独り子)イエス キリストによって罪の贖いの業がなされました。その神の救いの御業、死を打ち破って復活されたイエス キリストの命の恵みに、聖霊なる神が与らせてくださるのです。キリストと一つに結び合わせ、キリストを通して父なる神と結び合わせてくださいます。父・子・聖霊の三位一体の神の恵みに包まれて、わたしたちは神と共に生きるものとされ、本当の命の喜びを味わうものとされているのです。

ハレルヤ

 

聖句による黙想 6

聖句による黙想
 思い巡らす meditation meditado

 

申命記 6章 4, 5節(新共同訳)

聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。


 イエスが最も重要な掟としてあげられた第一の戒めである(マタイ 22:34~40)。
 神がわたしたちに求められることの根本は、神を愛することである。
 では、愛するとはどういうことだろうか?

ハレルヤ

 

聖句で辿る聖書 49

出エジプト記
4章 11, 12節(新共同訳)

主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」


誰が、わたしの命を造られたのか、わたしの賜物を与えてくださったのか。
わたしたちは、自分が生きていると考えるが、命も賜物(才能)も自分の所有物ではない。自分で選んだのではない。神が祝福して与えてくださった。わたしたちが生きている間も、神は与えた賜物を祝福してくださる。