聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ルカによる福音書 21:34〜38

2017年6月11日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 21:34〜38(口語訳)

 

 19章の終わりから20章にかけて「イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者また民衆の重立った者たちはイエスを殺そうと思っていたが、民衆がみな熱心にイエスに耳を傾けていたので、手のくだしようがなかった。ある日、イエスが宮で人々に教え、福音を宣べておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと共に近寄ってきて」(19:47~20:1)と書かれています。このようにして始まったイエスの話がきょうのところまで続いてきて、37節「イエスは昼のあいだは宮で教え、夜には出て行ってオリブという山で夜をすごしておられた。民衆はみな、み教えを聞こうとして、いつも朝早く宮に行き、イエスのもとに集まった」とこの一連の話の締めくくりが書かれています。

 さて、エルサレムの神殿で語られたイエスの最後の話は「その日」についてです。「その日」とは36節に「人の子の前に立つことができるように」とありますから、キリストの再臨、最後の審判を指しています。
 34節によれば、その日は思いがけないときにやってきます。1テサロニケ 5:2, 3では「あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない」と言われています。
 そして、その日は35節によれば「地の全面に住むすべての人に臨む」ものです。キリスト者であろうとなかろうと関係なく、すべての人に臨むものです。

 イエスが語られてから約2,000年、その日は来たことがありません。多くの人が、自分が生きている間には来ないのではないか、いやずっと来ないかもしれない、と思い、感じているかもしれません。そう、来ないかもしれません。生きている間には。しかし、一人ひとり人生の最後のときを必ず迎えます。それは、人の子の前に立つ先触れです。わたしたちは、近年の災害によって、本当に思いがけないとき、突如としてそのときがやって来て、終わりの日を迎えることがあることを知っています。
 わたしたちは、自分の人生がいつ終わるのかも知りません。まして世の終わりは分かりません。
 時は、わたしたちの支配下にはなく、わたしたちの手の中にはないのです。

 イエスは「その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい」(34節)と言われます。
 その日がいつかは分からない。しかし「その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように」と言われるのは、いつも注意して、そのように生きなさい、という勧めです。

 その具体的な注意が「あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに」という部分と、「絶えず目をさまして祈っていなさい」という部分です。
 「放縦」というのは「厳密には大酒盛りの後の二日酔い」(レオン・モリス、ティンデル聖書注解)のことのようです。続く「泥酔」とセットになって言われているようです。これは酔いのため正常な判断、動きができず、自分を制御、コントロールできない状態を表します。
 そして、世の煩いのために心が鈍っているとは、心配・悩みに捕らわれて、心が正しく判断できなくなっている様子を表しています。「放縦や泥酔」も「泥酔や、世の煩いのために心が鈍っている」状態も、同じ状態を指しています。正常な判断、動きができず、自分を制御、コントロールできない状態のことです。
 ですから、正しく判断し行動できない状態だとわなにかかってしまうから、「絶えず目をさまして祈っていなさい」とイエスは言われるのです。

 何かに捕らわれてしまっている、この世に酔ってしまっている、そこから覚めるためには祈りが必要だと言われています。
 祈りは、神の御前に立ち、神へと思いを向けるものです。この世や自分から離れて、神を仰ぎ、神の御心を思います。
 罪の世で起こる様々な出来事、誘惑、試練、それらから逃れて、再び来られ最後の審判を行われる人の子、イエス キリストの御前に立つためには、神と共にあり、神に支え導いて頂かなくてはなりません。
 祈りは、神へと立ち帰り、神と共に生きるための恵みです。だからこそ、わたしたちは祈りつつ歩んでいかなくてはなりません。祈りが大事だと理解するのではなくて、実際に祈るのです。日本キリスト教会信仰の告白には、信徒の訓練がありますが、祈りつつ神と生きられるようになる訓練を教会がするということです。
 日本キリスト教会の先輩たちは、礼拝と祈り会(祈祷会)は信仰生活の両輪である、と言っておられました。幼児が語られる言葉のただ中で、言葉を身につけ、話せるようになるのと同じく、先輩たちの祈りを聞きながら、祈りの言葉を覚え、祈りの姿勢を覚えて、祈れるようになっていくのです。ただ自分の願い事を言うだけなら、誰でもできるかもしれません。しかし、信仰の祈り、神の民の祈りを身につけるのは、我流ではできません。祈りつつ神と共に生きるようになるため、わたしたちの教会でも、皆さんが祈る機会をできるだけ多くと考えて取り組んでいます。
 是非共に祈って、祈りを身につけ、神と共に生きる人生、終わりの日にキリストの前に立つ備えをする人生を歩んで頂きたいと思います。

ハレルヤ

 

聖書通読のために 52

マタイによる福音書 6:13(新共同訳)

 主の祈りその8。
 「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」

 「誘惑」と訳されたのは言葉「ペイラスモス」は、「試練」とも訳されている。
 イエスは救い主として活動を始められたとき、荒れ野で「試練」を受けられた。聖書は「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになる」(ヘブライ2:18)と言い、「この大祭司(キリスト)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(ヘブライ4:15)と語っている。
 罪の世で生きるとき、試練・誘惑は避けられない。わたしたちは、救いを求めなくてはならない。そして救い主は、わたしたちが生きる罪のただ中に来てくださり、自ら試練を受けて、わたしたちを救い出してくださる。

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

聖句で辿る聖書 48

出エジプト記
4章 10節(新共同訳)

それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」


 神の召しを自信を持って担える人間はいない。

 

聖句による黙想 5

聖句による黙想
 思い巡らす meditation meditado

 

ローマの信徒への手紙 5章 6~11節(新共同訳)

実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。


 神はキリストにおいて、わたしたちに対する愛を示された。わたしたちは、キリストによって、義とされ、救われ、和解させて頂いた。
 イエス キリスト、この方こそ救いのただ一つの根拠である。

ハレルヤ

 

聖句で辿る聖書 47

出エジプト記
3章 14節(新共同訳)

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」


神は存在の根源。
すべての存在を支える源。