聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

聖句で辿る聖書 31

創世記

32章 25,27,29~31節(新共同訳)

ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。・・
「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」・・
その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」
「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。
ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。

 

 争う人ヤコブは、神とさえ争った。神の祝福さえ、神と争って得た。ヤコブは、イスラエルという新しい名をもらう。

 

ヨハネによる福音書 19:17〜30

2017年4月9日(日)主日礼拝
聖書箇所:ヨハネによる福音書 19:17〜30(口語訳)

 

 イエスは、自分が磔にされる十字架を背負って、処刑場へと進みます。そこはゴルゴタされこうべと呼ばれるところです。されこうべとは、白骨となった頭蓋骨のことです。処刑場にふさわしい名前かもしれません。そこでは、3人一緒に十字架につけられました。イエスはその真ん中で十字架につけられました。
 十字架は、自分のしたことを後悔させるように、長く苦しみを味わわせる処刑法です。両手両足を釘で打ち付け、磔にします。自分の体重で息をすることも苦しく、釘打たれたところからは血が流れ続け、太陽にさらされ意識がもうろうとし、口の中も乾きます。できるだけ長く、そして必ず死に至る苦しみを与える、人々にさらし者にする、それが十字架です。

 ピラトはイエスの十字架の上に、罪状書きをかけさせました。それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書かれていました。この罪状書きは、ユダヤの言葉であるヘブル語、ローマの言葉であるラテン語、そして当時の共通語であるギリシャ語で書かれました。ゴルゴタは都の近くにあったので、多くの人がこれを目にしました。
 イエスを憎んでいた祭司長たちは「ユダヤ人の王と自称していた」と書き直してほしいと願い出ましたが、ピラトはそれを受け付けませんでした。

 イエスを十字架につけたローマの兵卒たちは、死んでしまう者には不要となる衣服を自分たちで分けていきます。「四つに分け」とあるので4人いたのでしょう。下着は縫い目のない一つ織りだったので、くじで分けることにしました。
 これは聖書の御言葉が成就したのだと、福音書は語ります。詩篇 22:18にはこう書かれています。「彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする」
 イエスは運悪く殺されたのではありません。神の言葉を実現し、救いを成し遂げるために十字架を負われました。

 イエスを十字架につけた兵卒たちが、自分たちのものとなる衣服にしか興味を持ってないその場に、イエスに従ってきた女性たちが何もできずにただイエスのそばに立っていました。もちろん十字架を負うのは、罪人を救うためのイエスの務めであり、父なる神の御心ですから、女性たちが何かをすれば、イエスが十字架を負わなくてすんだという話ではありません。彼女たちは、ただ自分たちにできる最大限のこと、つまりイエスと共にいることを果たしたのです。

 イエスは十字架のもとにたたずむ母を、愛する弟子に託します。イエスは、この世にあって人として母に仕えることはできません。母に子の死を看取る悲しみさえ負わせることになります。ピエタと呼ばれる、十字架から降ろされたイエスを抱くマリヤを描いた彫刻や絵画があります。バチカンサン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロピエタが有名ですが、ご存じの方も多いと思います。
 神は全能の神です。けれど、神お一人で救いの御業を完結されるのではありません。神から務めを託され、担う、神の民をお用いになります。イエスの母として選ばれたマリヤにも、名を記されていないイエスの愛する弟子にも、そしてわたしたちにも、神から託された務めがあり、託された人がいるのです。それは、神の大きな救いの御業の中にある務めです。
 マリヤは、結婚する前にイエスを身ごもりました。出産の時も、住民登録のため長旅をし、旅先でイエスを生みました。イエスが大人になってからは父ヨセフの名が福音書に出てこないことから、ヨセフは早くになくなったのではないかと考えられています。その上、息子の死を看取らねばならない。それも多くの人に憎まれ、あざけられての十字架の死です。その一つ一つに何の意味があるのかと問われても答えることはできません。しかし聖書は、神がマリヤを選びイエスの母とされ、救いの御業をなされたことを告げています。
 神の民には、神から託された務めがあり、託された人がいるのです。

 しばらくの時が経って、イエスは聖書が告げるすべてが成し遂げられることを知って「わたしは渇く」と言われました。これも「聖書が全うされるため」と言われます。先ほども出てきた詩篇 22篇にある「わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく」(15節)を指していると言われます。
 さらに「酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した」とあります。
 酢いぶどう酒は、ぶどう酢を水で薄めたものだろうと言われています。ヒソプという植物は、その茎を束ねて清めの儀式に用いていました。
 そしてこの記述は詩篇 69:21の「彼らは・・わたしのかわいた時に酢を飲ませました」を指していると言われます。

 これらは福音書の編集者ヨハネの信仰を表しています。イエスが世に来られたのは、旧約の神の言葉を成就し完成するためであり、神の救いの約束をイエスが成し遂げられた。この十字架の場面でも、イエスの身に起こったこと、イエスが語られたことは、旧約の御言葉が成し遂げられたのだとヨハネが理解したことを表しています。
 ナザレのイエスと言われる人がいたこと、そのイエスが十字架につけられたことは、聖書以外、キリスト教以外の資料にも記されているようです。しかしその死が、聖書を全うするため、神の言葉を成就するためであったというのは、ヨハネの信仰です。
 旧約のイザヤ書にはこういう言葉があります。「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(55:10,11)ヨハネは、イエスの生涯を通して「神の言葉は真実であった。イエス キリストにおいて神の言葉は成就された」と信じたのです。
 だからこの福音書は、神の言葉であるイエス キリストの賛歌で始まるのです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(1:1~5)

 ヨハネはただ単に十字架の事実を伝えているのではありません。 
あの十字架において神の言葉が成就し、神の救いの御業が成し遂げられた。イエス キリストにおいて神の救いの御業は完成した。どれほど人間の罪が神の御心を拒絶し、神の御業を拒否しようとも、神の言葉は真実であり続け、神の真実こそわたしたち罪人を救う。
 ヨハネはまさしくキリストの福音をここで明らかにし、すべての人に宣べ伝えているのです。

 わたしたちは、この神の救いの御業に包まれ、喜びと感謝とをもって、十字架を仰ぎつつ受難週を歩んでいくのです。

ハレルヤ

 

神学入門 17

神学 教会学01

 

教会学とは?

 聖書学、組織神学に続いて、教会学について記す。(参照:神学入門03 神学 総論03 神学の諸分野 私見)
 教会学では、主に教会史と教会法を学ぶ。
 教会学では、教会とは何か、どのような存在か、どのように教会形成をしていくのか、について学ぶ。それを、教会の歴史と、今現在の教会の営みを支えるものとしての教会法から学んでいく。


なぜ教会史を学ぶのか

 教会史を学ぶのは、聖書自体が歴史的記述をしているからである。
 神ご自身が救いの歴史(救済史)を通してご自分を啓示しておられる。神の導きへと思いを向けるのに、教会史の学びは重要である。
 イスラエル同様、教会も様々な間違い、罪を犯してきた。今現在も教会は完全ではない。教会自体も悔い改めの信仰に生きるには、聖書に照らしながら教会の歩みを見ていかなければならない。
 おそらく、改革派教会でなくても、「御言葉によって改革され続ける教会」であることは、必要なことであろうと思う。


主は生きておられる(エレミヤ 4:2 新共同訳)

 

ヨハネによる福音書 18:37〜19:16a

2017年4月5日(水)祈り会
聖書箇所:ヨハネによる福音書 18:37~19:16a(新共同訳)

 

 ヨハネによる福音書によれば、イエスはキドロンの谷にある園で捕らえられました。マタイとマルコがゲツセマネの園と呼ぶ場所です。そしてイエスは、ローマ総督のピラトのところへ連れてこられました。
 エルサレムの指導者たちは、イエスが死刑に値するローマに反逆する者であると訴え出ました。
 ピラトはイエスに尋ねます。「お前がユダヤ人の王なのか」(33節)ピラトはイエスの答えを理解しようとしました。そして再度尋ねます。「それでは、やはり王なのか」(37節)
 イエスはお答えになります。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

 ここは、この新共同訳聖書と、日曜日の礼拝で使っている口語訳聖書とで訳が違うところです。新共同訳は「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と、イエスが王であると言っているのはピラトであるという訳になっています。一方、口語訳は「あなたの言うとおり、わたしは王である」と、イエス自らわたしは王であると言っている訳になっています。
 翻訳というものは、誰がしても同じではなく、翻訳する人の理解、解釈が表れてきます。
 新共同訳の場合、人々が言う王ではなく、真理を証しする者としてイエスは自らを明らかにされたという解釈に立っています。その方が、次のピラトの言葉「真理とは何か」という言葉、ピラトがイエスに罪を見出せないと言ったこと、イエスを釈放しようとしたことと調和するという理解です。
 聖書の翻訳に携わった方々は、わたしと比べようもなくヘブライ語ギリシャ語に精通している方々です。それでも、この訳には納得できないと思う箇所があります。けれど、皆さんが読んでいる聖書の翻訳を修正して、日本語の聖書に対する信頼が薄れ、読まなくなってしまっては本末転倒なので、わたしは最大限日本語の聖書の訳を尊重する仕方で説教するようにしています。ですからきょうは、新共同訳の翻訳に沿って理解していこうと思います。

 ギリシャ・ローマの文化において、価値基準となるものに「真・善・美」があります。真理と善と美です。「真理とは何か」というピラトの言葉が出てきますが、ローマ人であるピラトは、真理を証しするために来たというイエス自身に興味を持ち、もっとイエスの話を聞きたいと思ったのかもしれません。
 ピラトはもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言います。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか」ユダヤ人たちは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返しました。バラバというのは強盗で捕まっていた男でした。

 ピラトは、イエスを痛めつけ、辱めれば、ユダヤ人たちの気が済むのではないかと考え、イエスを鞭で打たせました。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打ちました。
 そうしてピラトはまた出て来て、ユダヤ人たちに語ります。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう」王だといっても、誰も助けに来ない、暴動も起こらない、イエスが無力な男であることを明らかにし、ユダヤ人たちの気持ちを満たしてやれば、イエスを釈放できるのではないかとピラトは考えました。
 イエスは茨の冠をかぶせられ、紫の服を着せられてユダヤ人たちの前に引き出されました。そしてピラトは言います。「見よ、この男だ」
 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫びます。ピラトは言います。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」
 これは暗にイエスを十字架にはつけないと言っているのです。総督である自分が決定しなければ、死刑は行われないからです。

 それに対してユダヤ人たちは答えます。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」
 この答えを聞いて、ピラトはますます恐れます。「王ではなく、神の子なのか」ピラトは再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに尋ねます。
 ヨハネによる福音書では「どこ」という言葉で「何に属するどういう人か」を表現しようとします。1:38でヨハネの弟子たちがイエスに「どこに泊まっておられるのですか」と尋ねたのも同じです。泊まっている場所を知りたかったのではありません。ヨハネが「見よ、神の小羊だ」(1:36)と言ったイエスが、何者であるかを知りたかったのです。イエスの答えは「来なさい。そうすれば分かる」でした。自分でイエスの言葉を聞き、業を見て、自分で判断する、ということです。

 イエスはピラトの問いに答えませんでした。焦りいらついたピラトはイエスに圧力をかけます。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」
 イエスはピラトに答えます。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
 自分に対する権限はただ神だけが持っておられる。わたしをあなたに引き渡した者たちは神を知る者たちである。だから、彼らの罪は(わたしを十字架につけるあなたよりも)もっと重い。これを聞いてピラトは恐れ、イエスを釈放しようと努めます。
 しかし、ユダヤ人たちは叫びます。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」
 ピラトはこの言葉を聞いて、これ以上イエスを助けようとすると、自分が皇帝への反逆罪で訴えられるかもしれないと思い、諦めました。

 ピラトはイエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせました。それは過越祭の準備の日、つまり金曜日の正午ごろでした。この時間は、マルコとは違います。マルコは「イエスを十字架につけたのは、午前九時であった」(15:25)と記しています。ここの解釈も様々あるので断定的に言えませんが、イエスの死後40年以上、それぞれに伝わった伝承が違っていたということかもしれません。

 ピラトがユダヤ人たちに「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは叫びます。「殺せ。殺せ。十字架につけろ」ピラトが「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えました。
 何という皮肉でしょうか。彼らは神の言葉を教え、神の言葉によって民を治める務めを担う者たちです。彼らはサムエル上8:6,7でこう書かれているのを知っています。「裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」
 神の民の王は、神ご自身なのです。それなのに祭司長たちはねたみのため、自分の誇りのため「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えたのです。彼らは神を退けたのです。
 そこでピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡しました。

 ピラトはイエスを引き出し「見よ、この男だ」とイエスを示します。ユダヤ人たちは「十字架につけろ」と叫びました。
 神の民に、神と共に生きるための真理を証しするために来られた方が、鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、紫の衣を着せられ、ただ一人神の民の憎しみを受けて立っておられます。

 皆さんはこのイエスに何と言われますか。
 わたしたちのために十字架を負い、命をおささげになるイエスは、皆さんの答えを待っておられます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マルコ 8:29)

ハレルヤ

 

教理による黙想の手引き 25

教理による黙想の手引き

 連載を終えて
 これまで24回にわたってブログに掲載してきたものは、日本キリスト教会発行『福音時報』において2015年1月号から2016年12月号まで、「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」というタイトルで連載したものである。
 「日本キリスト教会信仰の告白」から24の言葉を選んで書いてきた。当初は「説教という形で」という依頼で始めたが、すぐに行き詰まってしまった。わたしは教理は好きだが、教理説教は苦手なようである。説教は、あらかじめテーマがあるのではなく、聖書に沿って語る講解説教が好きなようである。
 日本キリスト教会信仰の告白は、日本キリスト教会のウェブサイトでご覧頂きたい。文語文と口語文とがある。

 教理は聖書の要約であるから、読み手・聞き手が「確かに聖書はそう言っている」と理解できることが大事だと思っている。この連載では、適切な聖句を提示して、聖句が語っていること、神の御心に思い巡らしてもらえるように願って書いた。
 信仰は、神へと思いが向かうことが大切である。教理を始め神学的知識を情報として理解しても、信仰は育たない。教理を水戸黄門の印籠のようにひれ伏させるために用いたのでは、教会の信仰は育たない。教理は聖書へと導き、神へと思いを導くものでなければならない。
 聖句に基づいて、神へと思いを向け、思い巡らす、黙想するのに、教理はよい助けになると思う。

 教理による黙想の手引きは、古代信条、宗教改革以降の改革派教会の信仰告白を用いて、また書きたいと思う。

ハレルヤ