聖書の言葉を聴きながら

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教理による黙想の手引き 22

教理による黙想の手引き 第22回
日本キリスト教会発行 福音時報 2016年10月号掲載
 掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」)

 

「聖餐(聖晩餐)」

「主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。」
(コリント人への第一の手紙 11章23, 24節 口語訳)

 主から委託された教会の務めである聖礼典。今回は、その2番目、聖餐(聖晩餐)です。

 今回、聖餐(聖晩餐)と書きましたが、わたしは普段、聖晩餐と言っています。主の食卓に与る晩餐であることを明らかにしたいと願っているからです。

 聖晩餐は、一度限りの洗礼と違って、繰り返し与る聖礼典です。
 これは、聖晩餐が、十字架と復活によって与えられた新しい命がまさしくイエスご自身の命であることを表すとともに、わたしたち神の民が生きる限り常に与えられていることを、教えてくれる礼典だからです。

 聖晩餐は、イエスが弟子たちと守られた「最後の晩餐」に由来します。これは、イエスの十字架の意味を予め弟子たちに示すものでした。運悪く捕らえられるのでもなく、力が足りないから十字架にかけられるのでもありません。イエスが世に来られたのは、十字架を負うためであり、そして自らの命をささげるのは、わたしたちに新しい命を与えるためであることを明らかにするための最後の晩餐でした。

 確かにこれは、イエスが弟子たちとこの世で守られた最後の晩餐ですが、ここから教会の聖晩餐が始まったという意味では、これは最初の晩餐です。イエスが代々の弟子たちのために定めてくださった大切な聖礼典です。

 聖晩餐の式文では、福音書にある最後の晩餐の箇所ではなく、コリント人への第一の手紙 11章23~26節が朗読されます。これは、福音書よりも手紙の方が成立が早く、手紙の箇所が伝統的に読まれてきたからだろうかと推測しますが、定かなことは分かりません。「わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」(1コリント 11:23~26)

 聖晩餐においては、最後の晩餐とイエスの十字架が想起されます。これは、救いのためになされた過去の出来事です。次に、聖霊の働きによって今、キリストの救いの出来事により与えられた新しい命が養われ育まれていることを確信します。これは現在の出来事です。さらに、終わりの日に神の御前で代々の聖徒たちと共に与る祝宴を仰ぎ望ませます。これは未来の出来事です。

 神が成してくださった救いの出来事があり、今、その恵みに養われ導かれている自分と世界があります。そして、示され告げられているけれども、わたしたちの思いをはるかに超える喜びの未来が備えられています。この救いの歴史のただ中に自分が置かれていることを示しているのが聖晩餐なのです。

 神の家族とされたわたしたちは、主の食卓で、主の命によって、養われ育まれていくのです。

 この機会に関連の聖句を読んでみましょう。
マタイによる福音書 26章26~29節
マルコによる福音書 14章22~26節
ルカによる福音書 22章15~20節
コリント人への第一の手紙 11章23~26節

ハレルヤ

 

聖句で辿る聖書 27

創世記
26章 28,29節(新共同訳)

彼らは答えた。「主があなたと共におられることがよく分かったからです。そこで考えたのですが、我々はお互いに、つまり、我々とあなたとの間で誓約を交わし、あなたと契約を結びたいのです。
・・・
あなたは確かに、主に祝福された方です。


 神の祝福は、隣人との関係をも創り出す。

 

ルカによる福音書 21:10〜19

2017年3月12日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 21:10〜19(口語訳)

 

 きょうの場面は、5節からの続きです。
 エルサレム神殿は、大規模な改修工事が行われていました。その見事な石と奉納物を見て感心していた人たちに対し、イエスは神殿が破壊されることを予告されました。そしてきょうの次の箇所、20節には「エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば」と書かれています。ですから、きょうの箇所もエルサレムの滅亡に関して語られた言葉です。新共同訳聖書では、7節からのところに「終末の徴」という小見出しが付けられていますが、ルカは世の終わりについて語ったのではなく、エルサレムの終わりについて語られたイエスの言葉を記したのです。

 イエスの救い主としての活動は、およそ紀元30年頃から3年間ぐらいであったと考えられています。そしてエルサレム神殿の改修工事が完了したのが、紀元63年頃、ユダヤ戦争が勃発するのが紀元66年。エルサレム神殿が破壊されてしまうのが紀元70年の出来事です。
 ですから、きょうの箇所でイエスが言われたことは、この語られた場面からおよそ40年間に起こってくる出来事を告げておられるのです。イエスが語られたのは、戦争、災害、疫病、飢饉、迫害です。

 これらは、神殿が破壊される前に起こる特別なことではありません。いつの時代にも起こることであり、今も起こっていることです。
 紛争は絶えず世界のどこかで起こっています。民は民に、国は国に敵対しているような状況は、日本にもあります。
 大きな地震は、近年日本においても多発しています。
 様々な疫病が世界に広まり、感染の流行を示すパンデミックという言葉もよく使われるようになってきました。
 日本では十分な食料があるように思えますが、世界の半数は飢えているとも言われています。
 人権ということが言われるようになって結構な時間が経ちました。世界最初の人権宣言は1776年にアメリカで宣言された「バージニア権利章典」だと言われます。そして日本最初の人権宣言は1922年に京都府で宣言された「水平社宣言」であると言われます。世界で人権が言われて250年弱、日本でも100年近くになります。しかし、世界でも日本でもいじめから迫害に至るまでなくなることはありません。近年ナショナリズムは強まりつつあり、ヘイトスピーチなど排他主義は公然と主張されるようになってきています。この国でもキリシタン時代の迫害があり、明治以降も耶蘇と言われ、石を投げられたようなこともありました。そして、これからも迫害の時があることでしょう。家族も友人も支えてはくれず、憎まれ、中には殉教する人も出てくるのでしょう。

 罪の世にあって、歴史は繰り返されるでしょう。何度争いを経験し、人を区別し差別して、それらが悲しみと怒りしかもたらさないと気づいていても、罪人はそこから離れることができずにいます。
 繰り返される罪の歴史の中で、それを貫いて成されていく神の御業にこそ、わたしたちは気づいていかなくてはなりません。

 イエスが語られたこれらのことは、世の人々が支えとし誇りとしていたものが崩れていく過程で起こってくるものです。ここではエルサレム神殿であり、神の民ユダヤ人であるということです。事実、神殿は破壊され、彼らは国を失い、キリストを拒絶しキリスト者を迫害した彼らが、迫害される者となりました。
 この箇所で、これらの言葉で、イエスが問われているのは、わたしたちが今、何を支えとし、何を誇りとして生きているのか、ということです。

 この場面の始まりはこうでした。ある人たちが神殿を見て、感心している。この神殿は素晴らしい、誇らしいと感じている人たちに対して、イエスが語りかけられました。あなた方の感心しているものが崩れ去っていく、あなた方はこれに望みを置き、これを誇りとするのではない。それを気づかせるためにイエスが語りかけられました。わたしたちは、そのことを心に留めてこの箇所を読まなくてはなりません。この箇所は単なる未来の予言ではないのです。
 ルカがこの場面を記したのは、過ぎ去り、消え去っていくものを誇りとするのではなく、変わることのない神の真実な御業、イエス キリストにこそ心を向け、喜び、望みを置くためです。この福音書の冒頭には「テオピロ閣下よ、わたしも・・ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました」(1:3)と献呈の言葉が書かれています。ルカは、世界の中心都市ローマ、エルサレム神殿をしのぐ壮麗な建物が並ぶローマもまた過ぎ去り、消え去っていくものであり、人の支えとはなり得ず、誇りとすることもできないということを、伝えようとしているのです。そしてルカは、この福音書を通してイエス キリストを伝えるのです。「この人をご覧ください。この人こそ、あなたを最後まで支え導くお方、あなたの救いとなり、あなたの誇り、望みとなるお方です」と伝えているのです。
 そして今、神ご自身がこの御言葉を通してわたしたちに語りかけ、問いかけておられます。あなたは何を誇りとし、何に望みを置いているか。誰があなたを救うのだろうか。

 すべてのものが移り変わる諸行無常の世にあって、永遠に真実であられる神以外にわたしたちの誇りとなり、支え続けてくれるものはないのです。旧約でもこう言われてきました。「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主のみ名を誇る」(詩篇20:7)また「その聖なるみ名を誇れ」(歴代誌上16:10、詩篇105:3)とも言われています。ですから新約でも「『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである」(1コリント1:31)と言われています。

 ですから19節で「堪え忍ぶ」と言われているのは、神へと思いを向け、神を誇りとし、神に望みを置くことに堅く留まる、ということです。神の許でこそ、自分自身の魂、つまりわたし自身を失うことなく、しっかりと保つことができるのです。なぜなら、このわたしの創造のときから神がわたしを愛していてくださり、わたしが失われることがないように神が救い主を遣わしてくださったからです。神の許にこそ、このわたしのあるべき場所が備えられているのです。

 罪の世で生きていれば、困難もあるでしょう、迫害もあるでしょう。中には殉教する者も出てくるでしょう。しかし、どのような時にもどんな状況にあっても、神の民は神の御手の中にあり、髪の毛一筋でも神から奪い去られることはないのです。
 神と共に歩むための言葉、わたしを支えてくれる言葉は、神が与えてくださいます。この世の基盤が揺らぎ、迫害が起こるとき、「どう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心を決めなさい」「言葉と知恵とを、わたしが授けるから」とイエスは言われました。本当に必要なものは、神から来るのです。救いは、神が備えていてくださいます。これからもそうです。だから、どのような時にもどんな状況にあっても、神の民は神の御手の中にあり、髪の毛一筋でも神から奪い去られることはないのです。
 神は言われます。「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ』」(イザヤ43:1)神はそのためにイエス キリストをお与えくださいました。キリストの命によって、わたしたちは贖われ、わたしたちはキリストのもの、神のものとされたのです。
 ですからわたしたちは今、イエス キリストを誇りとし、神に望みを置いて生きていくのです。終わりの日まで、神に依り頼み、神に救われ、神に支えられて歩んでいくのです。

ハレルヤ

 

聖句で辿る聖書 26

創世記
26章 25節(新共同訳)

イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。


 神を礼拝する場面。
 「主の御名を呼ぶ」は4:26に初めて出てくる。そこには「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」と礼拝の起源が記されている。
 礼拝は、神と共に生きるために与えられた恵み。

 

神学入門 13

神学 聖書学10

正典 03

 

 「聖書は神の言(ことば)である」。これが、わたしが日々営む教会の学としての神学の基盤である。
 しかしわたしは、聖書を全部調べ、納得した上で「聖書は神の言である」と信じているわけではない。
 わたしは、イエス キリストをわたしの救い主である、と信じたときに、キリストにあって聖書は神の言であると信じたのである。
 イエスは安息日に会堂でイザヤ書から語られた(ルカ 4:16〜21)。また「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ 5:18)と言われている。
 イエスご自身が旧約を神の言とされ、わたしは聖書によってキリストと出会い、信仰に導かれた。だから、キリストにあって聖書は神の言であると信じているのである。旧約も新約も神を証しし、神である御子イエス キリストを指し示している。

 このようにして、わたしは「聖書は神の言である」と信じているが、説教の務めを与えられているので、できれば聖書全巻を礼拝と祈り会で語り、「確かに聖書は神の言であった」と確認したいと願っている。しかし、それは時間的に難しいようだ。2017年4月で説教を始めて27年になるが、まだ説教していない箇所が多くある。
 その上、わたしの信仰が及ばなくて、まだ神の御心を理解できていない箇所が何カ所かある。以下に記した4箇所はわたしにとって特に困難な箇所である。皆さんに神の御心を尋ね求めていって頂きたい。そして分かったことをネットで発表して、教えて頂きたい。
 ヨシュア記、士師記の聖戦
 歴代誌上1〜12章の系図
 テモテへの手紙 一 2:12〜3:1
 ヘブライ人への手紙 6:4〜6
 神の国に入れられて、神にお会いできるときには、是非お尋ねしたいと思っている。

主は生きておられる(エレミヤ 4:2 新共同訳)