神学入門 13
神学 聖書学10
正典 03
「聖書は神の言(ことば)である」。これが、わたしが日々営む教会の学としての神学の基盤である。
しかしわたしは、聖書を全部調べ、納得した上で「聖書は神の言である」と信じているわけではない。
わたしは、イエス キリストをわたしの救い主である、と信じたときに、キリストにあって聖書は神の言であると信じたのである。
イエスは安息日に会堂でイザヤ書から語られた(ルカ 4:16〜21)。また「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ 5:18)と言われている。
イエスご自身が旧約を神の言とされ、わたしは聖書によってキリストと出会い、信仰に導かれた。だから、キリストにあって聖書は神の言であると信じているのである。旧約も新約も神を証しし、神である御子イエス キリストを指し示している。
このようにして、わたしは「聖書は神の言である」と信じているが、説教の務めを与えられているので、できれば聖書全巻を礼拝と祈り会で語り、「確かに聖書は神の言であった」と確認したいと願っている。しかし、それは時間的に難しいようだ。2017年4月で説教を始めて27年になるが、まだ説教していない箇所が多くある。
その上、わたしの信仰が及ばなくて、まだ神の御心を理解できていない箇所が何カ所かある。以下に記した4箇所はわたしにとって特に困難な箇所である。皆さんに神の御心を尋ね求めていって頂きたい。そして分かったことをネットで発表して、教えて頂きたい。
ヨシュア記、士師記の聖戦
歴代誌上1〜12章の系図
テモテへの手紙 一 2:12〜3:1
ヘブライ人への手紙 6:4〜6
神の国に入れられて、神にお会いできるときには、是非お尋ねしたいと思っている。
主は生きておられる(エレミヤ 4:2 新共同訳)
教理による黙想の手引き 21
教理による黙想の手引き 第21回
(日本キリスト教会発行 福音時報 2016年9月号掲載
掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」)
「洗礼」
「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」
(マタイによる福音書 28:19 ~20 口語訳)
主から委託された教会の務めには、聖礼典があります。
聖礼典には洗礼と聖晩餐(聖餐)の2つがあります。この2つは基本的に礼拝の中で行われます。説教と切り離すことはできないものです。
聖礼典は、主が行うように命じてくださったものです。目に見えるしるしによって、自分がキリストの救いに入れられていることを確認させてくださる恵みの業です。説教で告げられた救いの出来事に自分が入れられていることを保証してくださる恵みの業です。
今回は、洗礼について考えましょう。
使徒行伝 22章16節には「み名をとなえてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い落としなさい」とあります。罪の洗い落とし、罪の洗い清めの洗礼という理解が示されています。使徒行伝 2章38節には「罪のゆるしを得るために・・バプテスマを受けなさい」とあり、罪の赦しを得るための洗礼という理解が示されます。
この罪の赦し、洗い清めということを考えるとき、一番思い浮かぶのは、イエスが洗礼を受けられた(マルコ 1:9~11、マタイ 3:13~17、ルカ 3:21, 22)、ということです。イエスは罪を持っておられません。つまり、イエスには洗礼を受ける必要はないのです。それなのにイエスは洗礼をお受けになりました。そして3つの福音書ともに「わたしの心にかなう者である」という天からの声を記しています。
この洗礼から救い主としての公生涯が始まるわけですが、罪の洗い清めの必要のないイエスが洗礼を受ける。それが父なる神の御心にかなう。これは救い主の有り様を象徴する出来事です。罪なき神の子が、罪人のために人となる。罪の贖いのために十字架で命をささげる。救い主は、罪人の救いのために自分自身には必要のないことを身に負って、わたしたちの前に救いの道を開いてくださったのです。
もう一つ洗礼が指し示す大切な事柄があります。それは、救いのために人となられたイエス・キリストと結び合わされる、ということです。結び合わされるというのは、イエスの救いの御業が自分のものとなるということです。ローマ人への手紙 6章3~6, 8, 11節を読んでみましょう。「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。・・もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。・・このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」
ここで書かれているのは、洗礼を受けるということは、イエスの十字架の死と復活の命に結び合わされ、古い自分に死んで、キリストの復活の命に新たに生まれる、ということです。これは、キリストと一つにされるということです。分かち難く一つにされるということです。
だから、イエスは力強く宣言されます。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ 28:20)。
洗礼によって、イエスと共に生きる新しい人生が始まるのです。
ハレルヤ
聖書通読のために 40
思い巡らす meditation meditado
神の思いに心を向けるために
マタイによる福音書 5:38〜42(新共同訳)
38節の「目には目を、歯には歯を」は出エジプト 21:23に出てくる。この戒めには、為したことの責任を取ることと、報いが「目には目と歯を」のように増大することを制止する意味がある。
「悪人に手向かってはならない」の箇所で、先輩の牧師は「自己防衛、家族を守ることなどをしなくてもよいということではない。悪人に対して、こちらも悪人のようになり、手向かってはならない」と語っている。わたしも罪を容認し(例えばいじめ)、罪を助長するような行為が求められているのではない、と思う。
聖書では「悪に報いたい、と言ってはならない。主に望みをおけ、主があなたを救ってくださる」(箴言 20:22)、また「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります」(ローマ 12:19)と言われている。
これは、個人的な復讐、私刑が戒められていると、わたしは理解している。それには、主の裁きを信じられなくてはならない。神はご自身のひとり子の命をかけても罪を裁かれるお方である。
わたしには、40〜42節を理解するのが難しい。
当時も、そして今でも、権力による搾取、強制は存在する。基本的人権が言われ教えられる現代日本でも、それはある。ただ、40, 41節と42節とでは意味合いに違いを感じる。搾取され、強制されたものは貸しなのだろうか。
喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)