聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

聖書通読のために 39

思い巡らす meditation meditado
 神の思いに心を向けるために

 

マタイによる福音書 5:33〜37(新共同訳)

 イエスは一切誓うなと言われる。誓いが意味のないものとなっていたからであろう。主に対して誓ったのでなければ、例えば天や地、エルサレムや自分の頭にかけて誓ったものは、誓いを破っても責任を負わなくてよいようになっていたのではないかと思う。
 言葉が空虚なものとなり、また言葉によって築かれるお互いの関係も空虚なものとなっていく。
 神の言葉は出来事となり、空しくなることはない。ご自身の言葉について、主はこう言われる。「わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ 55:11)
 教会では、誓約をする機会が多くある。洗礼、任職、結婚・・・言葉が空しくなることのないように、儀式の約束事ではなく、言葉が意味を失わないように気をつけていかなければならない。


喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

神学入門 12

神学 聖書学09

正典02

 聖書について考えるとき、わたしは神の御業から考える。聖書に先立って、神の御業があるからである。
 例えば、アブラハムは、自分のことを書いた聖書を持っていない。神は、アブラハムに関する出来事を、後の民にも伝えようと願われた。神の御心があって、聖書は神の言としてできてくる。そして、神はご自分を啓示し、御心を示されるのに、人の言葉をお用いになられた。不完全な人の言葉をお用いになられた。
 聖書には、神を岩、盾、光などと比喩を使って表現している。どれ一つとして、完全に神を語ってはいない。だからこそ、様々な比喩を用いて、神を表現し伝えようと努めている。人の言葉は、神を正確に表現し尽くすことはできない。しかし、神は人の言葉をお用いになられる。
 イエス キリスト以外、誰一人として完璧な神の御心を理解し、語ることのできる者はいない。しかし、神は不完全な説教しかできない者を説教者としてお立てになる。そして、罪人の不完全な説教を用いて、ご自分の民を起こされる。
 パウロ自身、「わたしは、その罪人の中で最たる者です」(1テモテ 1:15 新共同訳)と述べている。また、聖書となったフィリピの信徒への手紙を書いているときでさえ「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」(フィリピ 3:12)と記している。
 神はご自身の御旨と御業を伝えるのに、罪人の不完全な言葉を用いてくださり、証しし宣べ伝えるのを託してくださっている。それにも関わらず、救いの御業は少しも弱まることなく、神の愛と真実が、今に至るまで、そして救いの完成する日まで、貫かれ確立されている。

 この神の御業を前にするとき、わたしは逐語霊感説にも聖書無謬説にも立てないと思うのである。どちらも神の御業とは違う考え方に思える。丁度、ペトロが「そんなことがあってはなりません」(マタイ 16:22)とイエスをいさめたのと同じように思える。
 十字架がどれほど人にあざけられようとも、事実代々の聖徒たちを救ってきたように、聖書もまた誤りがあると指摘されようとも、聖書だけが人々をキリストへと導き、神と出会わせ、救いへと導くのである。その事実が、聖書は神の言葉であることを証ししている。

 わたしは大学生時代、キリスト者学生会(略称:KGK)に所属していた。そこでは確か、「聖書は原典において誤謬を含まず」と言われていた。そこには、祈り篤くまじめに信仰生活を送っている敬愛するキリスト者が大勢いた。その中で、わたしは「聖書は神の言である」とはどういうことか考え続けてきたし、今も考えている。
 その過程にあって、わたしは「聖書は原典において誤謬を含まず」というのは、神の御業そして聖書の証言と合わない考え方だと思うのである。

 一方で、わたしは日本キリスト教会にあって、かなり保守的な正典論に立っているのだと思う。日本キリスト教会は、神学を重んじるが故に、この世の学問としての神学に引きずられ、「聖書は神の言葉である」という信仰が少々希薄になってしまっているように感じる。

 日本キリスト教会信仰の告白は、「旧・新約聖書は神の言であり、そのなかで語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕らかに示し、信仰と生活との誤りのない審判者です」と告白している。
 聖書を聖霊と切り離さないのが、改革派教会の神学の特徴だと先輩に聞いたことがある。
 わたしは「日本キリスト教会信仰の告白(口語文)」を毎週礼拝において告白している。告白の他の部分ももちろん大事だと思っているが、説教の務めを担う者として上記の部分は大切に告白している。
 そして、説教前の祈りでは「聖書朗読と説教とを祝福し、あなたご自身が語りかけてくださいますように。あなたと出会い、あなたを知る時としてください」と祈るのである。

主は生きておられる(エレミヤ 4:2 新共同訳)

 

教理による黙想の手引き 20

教理による黙想の手引き 第20回
日本キリスト教会発行 福音時報 2016年8月号掲載
 掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」)

 

「宣べ伝える」

「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、・・あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」(マタイによる福音書 28章19~20節 口語訳)

 教理の学びもあと5回となりました。最後は教会の務めについて学んでいきます。
 日本キリスト教会信仰の告白にもありますように、教会の務めは、主の御心によって、委ねられているものです。今回は、御言を宣べ伝えるについて聖書から考えていきましょう。

 宣べ伝えるについては、伝道と宣教の2つの言葉が使われます。
 伝道は、道を伝えること。自ら「道である」と言われたイエス(ヨハネ 14:6)を伝えることであり、「この道」と言われたキリストに従って生きる道(使徒 9:2、19:9他)を伝えることです。
 宣教は、教えを宣べ伝えること。イエスの教えを宣べ伝えることです。伝道よりも広く、教会の社会的責任などについても使われます。
 今回は、伝道の意味で語ります。

 現代は伝道の困難な時代だと言われます。しかし、罪の世はいつも神と共に生きることを拒否します。神を自分のために利用するのではなく、神に従い神と共に生きようとする人は少ないのです。
 それでも神は語られます。悪人が悔い改めて生きるようになることが、神の御心だからです。「主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。」(エゼキエル 18:23)
 自分がこの悪人の一人であり、神のこの憐れみによって自分が救われていることも分かります。それでも、なぜ神はもっと罪を打ち砕き、義をお建てにならないのか、と思わずにはいられません。
 聖書は「宣教の愚かさ」(1コリント 1:21)という言葉を語ります。これは、人間の賢さを超える神の愚かさです。

 わたしたち神の民は、神の言葉が出来事となり、神の言葉、そして神の愚かさがこの罪の世に勝利することを信じて語り続けるのです。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ 16:33)
 伝道は、「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(1テモテ 2:4)という神の御心に共感して宣べ伝えます。決して人が増えると教会会計が安定するといった教会の自己目的のためにするのではありません。

 ところで伝道は、教会が年に数回伝道礼拝をしていれば伝道しているというのではありません。
 わたしたちキリスト者一人ひとりが宣べ伝えるのです。わたしたちは、上掲の主の宣教命令のもと、キリストの弟子とされ、キリストに遣わされているのです。
 わたしたちは、説教を聞くだけの人であってはいけません。
 日本キリスト教会は、信徒を「説教のよき聞き手」であるように求めてきましたが、ここに日本キリスト教会の信仰と神学の間違いがあります。特に、神学を重んじる中で、神学を学んでいない信徒たちに「間違ったことを伝えてはいけないから、聖書の話は牧師にお任せしよう」という思いを植え付けてきてしまいました。これは、主の宣教命令とは違うものです。日本キリスト教会は今現在、宣べ伝えない教会になっています。

 今、教理を学んでいるのは、宣べ伝えるためです。知識欲や知的好奇心を満たすために、神学をするのではありません。今必要なのは、主の宣教命令に従い、宣べ伝える信仰の決断です。教会に誘っても来ないなどと効率を考えるのではありません。神の愚かさを信じ、宣教の愚かさに徹するのです。そのとき、わたしたちは世に勝利する神の栄光を見るでしょう。

ハレルヤ

 

聖書通読のために 38

思い巡らす meditation meditado
 神の思いに心を向けるために

 

マタイによる福音書 5:31, 32(新共同訳)

 離縁(離婚)について。
 イエスは、不法な結婚以外、離縁を許可していない。
 不法とは、法に反していること。法とは、神の戒め、律法のこと。一方が、結婚に関する律法に反した行為を行ったときには、離縁が認められた。
 しかし、そうでなくても、罪人は離縁を自由に行うための抜け道を探す。離縁状さえ渡せば、離縁できることになってきていた。
 神の戒めの抜け道を通ろうとする者は、罪に荷担する者、罪の仲間となる。
 この問題は19章3節以下でも語られている。

 罪の世では、離婚は起こる。しかし、それを当たり前、当然の権利にしてしまってはならない。キリスト者であれば、神の前での誓約を守れなくなったことを謝罪し、神の憐れみを祈り求める。牧師(聖職者)は、離婚する兄弟姉妹のために神の憐れみを執り成し祈ることが必要だと、わたしは思う。


喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)